大道米運龍神の読み方すら分からない。米運は「べいうん」として、大道は「だいどう」か「おおみち」か。 大道というと一般的に広い道のことで、米運というのは米を運んだということか。その道ばたで龍神を祀ったということだろうか。 どういう神社かまったく分からなくてお手上げとなっていたところ、あるネット情報に当たった。 それによると、この神社は北条氏家臣の大道寺家が尾張の地に移り住んで祀ったもので、本来であれば大道寺米運龍神だったはずだという。 情報源が定かではないのでどこまで信じていいのかは分からないのだけど、尾張藩士として大道寺家が代々続いたことは確かで、その一族がこの地にいたとすれば神社を建てた可能性は考えられる。
大道寺氏(だいどうじし)は、京都宇治の大導寺が発祥とされる一族で、藤原南家貞嗣流とも桓武平氏維衡流ともいう。 室町時代中期に、大道寺太郎が伊勢盛時(北条早雲)とともに伊豆国に移り、伊勢氏が戦国大名・北条氏(後北条氏)になるとその重臣として仕えた。 武蔵国河越城代を務めた大道寺政繁の次男の直重は、秀吉の小田原城攻めによって北条氏が滅亡すると、加賀前田氏を頼り、後に家康の四男で尾張藩主だった松平忠吉に2000石で仕えることになる。 忠吉が死去すると、代わって清洲藩主になった家康九男の義直に仕えることになり、大坂の陣での活躍が認められ、2500石で尾張藩士となった。 この直重の家系が代々尾張藩士として幕末まで続くことになる。 西区円頓寺の金刀比羅社は大道寺家の邸宅内にあったものだ。大道寺家についてもそのとき書いている。 大道米運龍神があるのは名古屋城下の外れなのだけど、このあたりにも大道寺家の一族が暮らしていたということだろうか。藩士の直重に始まる家は三の丸に屋敷を構えていた。 幕末の慶応4年(1868年)1月。尾張藩において青松葉事件(あおまつばじけん)が起きる。勤皇派の14代藩主徳川慶勝が勅命を受けて尾張藩内の佐幕派を弾圧した事件だ。 弾圧に到った理由は諸説あってはっきりしないも、藩士14名が斬首、20名が処罰された。一説では尾張藩内の派閥争いが元になっていたともいう。 その中に大道寺主水直良の名がある。佐幕派だったため、処罰の対象とされたようだけど、明治になってえん罪だったとされた。処分は隠居、減知、永蟄居だった。 この後、大道寺家は尾張を離れたと伝わる。行き先は分からない。
明治42年(1909年)にこの地に住んだ人が大道寺が去った後、祀る人がいなくなった龍神がいるという話を聞いて、あらためて祀ったのが今の大道米運龍神なのだという。 大道寺と大道を間違えてしまったとして、米運は何だろう。あらたに祀った人が米関係の人だっただろうか。 少し東を走っている伏見通は、中山道の垂井宿から清須、名古屋城下を通って熱田の東海道に通じる美濃路が元になっている。西には堀川が流れていて熱田の湊に直結していた。いずれにしても米などを運ぶ問屋を置くには向いている場所だ。 神社裏手にある木材会館は無関係だろうか。
入り口の鳥居には昭和十年と刻まれている。鳥居を初めて建てたのがこの年だったかもしれない。 本社は真新しくてピカピカだから、ここ最近建て直したもののようだ。 掃除が行き届いているとまではいかないにしても、荒れている様子はないから、お世話している人がいるということだろう。 龍神を置いて大道寺さんはどこへ行ったのだろう。今でも一族は続いているだろうか。
<追記> 神社があるすぐ東にNTT西日本東海病院がある。ここは戦前まで名古屋米穀取引所があった場所で、神社はそれに関係があるかもしれないと教えていただいた。 尾張藩の御米会所は、明治9年(1876年)に米商会所と改められ、明治26年(1893年)には株式会社名古屋米穀取引所となった。 当初は内屋敷町(廣井村)にあって、日清戦争後の明治31年(1898年)に那古野村広井に移転した。同地は明治34年(1901年)に米屋町と改名されている。 神社がある場所の東に新市場ができたのは昭和2年(1927年)で、その当時ここは米浜町といっていた。その後、松原町になったものの、すぐ南にある郵便局は今も米浜局として旧町名をとどめている。 昭和14年(1939年)に米穀配給統制法が成立して米は国が管理することになったため、名古屋米穀取引所は閉鎖となった。 以上の流れを考えると、この神社に名古屋米穀取引所が関わっているとしても、それは昭和2年以降のことであり、昭和14年には閉鎖になっていることからして関わりは薄いようにも思う。 ただ、鳥居に昭和十年とあって、その頃はここに名古屋米穀取引所があったので、名古屋米穀取引所の関係者が寄進したものという可能性はある。 また何か情報が得られたら追記したいと思う。
作成日 2017.8.2(最終更新日 2020.7.27)
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