天神社(桜天神社)

都会のビルに囲まれた小さな天神さん

桜天神社

読み方 てんじん-しゃ(さくら-てんじん-しゃ)
所在地 名古屋市中区錦2丁目4-6 地図
創建年 1538年(戦国時代中期)
旧社格・等級等 村社・十二等級
祭神 菅原道真(すがわらのみちざね)
アクセス 地下鉄桜通線「丸の内駅」5番出口から徒歩約2分
駐車場 なし
webサイト 公式サイト
その他 例祭 9月24・25日
オススメ度 **

 桜もないのにどうして桜通なのか不思議に思っている人もいるだろう。交差点の角に数本の桜の木が植えられているだけで、この通りはイチョウ並木の名所だから銀杏通の方がふさわしいんじゃないかと私なども思ったりする。
 桜通の名称は通り沿いにある桜天神から来ている。その桜天神は境内に桜があったことが由来とされる。しかし、その桜は江戸時代の火事で焼けてしまい、桜天神の名称だけが残った。
 この神社の正式名は天神社なのだけど、桜天神社として通っているので、ここでも桜天神社としておく。江戸時代は桜天満などと呼ばれていた。
 名古屋駅からほど近い中区錦2丁目、オフィス街のど真ん中の大通り沿いに高いビルに囲まれて身を縮めるようにして神社はある。
 名古屋城築城の際、加藤清正がここを普請場とし、桜を見ながら花見をしたり茶会を開いたりしたという。
 戦国時代、信長の父・信秀が北野天満宮(web)から菅原道真の木像を譲り受けて那古野城内に設けた祠に祀ったのが始まりとされている。

 織田信秀が今川氏豊の那古野城を計略で奪い取ったのが1532年、もしくは1538年とされる。
 信長が1534年生まれなので、1532年に奪ったとすれば那古野城生まれの可能性が高く、奪ったのが1538年であれば勝幡城生まれということになる。
 信秀は生まれてすぐの信長を那古野城主とし、自分は古渡城(今の東別院)を築いてそちらに移った。それが1534年というのだけど、もし那古野城を奪ったのが1538年だとすると、話の流れと年代が合わないことになる。
 信秀が那古野城に菅原道真像を祀ったのが桜天神の始まりだとすると、それは信秀が那古野城主だった時期ということになる。
 那古野城を奪ったのが1532年なら古渡城に移る1534年までの間だろうけど、那古野城を奪ったのが1538年だとすると、ここでも話のつじつまが合わない。やはり通説通り那古野城を奪ったのは1532年とした方が流れとしては自然だ。
 1546年、信長は13歳のときに古渡城で元服した。
 那古野城は信長が1555年に清須城に移った後、廃城になったと伝わる。

『愛知縣神社名鑑』は、「天文年中織田信秀に名古屋城の一隅に鎮座のところ天文七年(1538)城南の桜林の内社殿を設け鎮祭す」と書いている。
 しかし、名古屋城築城は1610年以降なので、これは那古野城の間違いだ。
 天文元年は1532年で、信秀が城内に祀っていたものを1538年に城外の桜林に移したといっている。これはちょっとどうなのか。

『尾張志』(1844年)は天満天神社としてこんなふうに書いている。
「小さくら町にあり菅贈太政大臣束帯ノ像を安置す此地はもと龜岳山万松寺の舊址なり當社はそのかみ此寺鎮守のやしろにして織田備後守平信秀の尊崇信仰乃靈社なりとそ」
 もともと神社がある場所には萬松寺(web)があって、その寺の鎮守として信秀が祀ったという。
 萬松寺は1540年に信秀が織田家の菩提寺として創建したとされる。

『尾張名所図会』(1844年)はそのあたりの経緯についてこう書く。
「櫻天満宮 小櫻町本町西へ入南側にあり。織田備後守信秀つねに天満宮を信仰し、或時京都北野へ参詣ありけるが、一夜の夢に、菅神枕上に立ち給ひ、我此梅松院にある事年久し。今汝が住國にむかへよ、諸民の安全を守らんと告げ給ひしかば、いそぎ梅松院に到り、其旨を語りしに、梅松院も前夜に見し夢の靈告に符号せしかば、彼院の靈寶なる御自作の神像を信秀に附與(ふよ)しけるを、天文九年ここにうつし。社を創建して安置し、萬松寺の鎮守とせしが、慶長御遷府の時、萬松寺を今の所へうつされしかども、御國の神慮にまかせ、此社は残りてここにいませり」

 ここでは那古野城に祀ったという話は出てこないのだけど、公式サイトによると、信秀が道真の夢を見て京都北野の梅松院から道真像をいただいてきたのは1538年(天文7年)で、萬松寺の鎮守とするために現在の場所に移したのが1540年(天文9年)としている。
 1540年に信秀が萬松寺を建てたのが桜天神のある場所で、当時は5万5千坪の敷地を有していた。現在の錦2丁目・3丁目から丸の内2丁目・3丁目にかけてが境内地だった。名古屋ドーム3.5個分以上なので、相当に広かった。
 今川の人質になるはずだった竹千代(のちの徳川家康)は、田原城主の戸田康光の裏切りによって、尾張の信秀に売り渡されることになる。それが1547年のことだ。
 しばらくは熱田の加藤図書助順盛宅でかくまわれ、その後、萬松寺に移されて3年を過ごした。信長と出会ったのもこのときだったとされる。
 1552年に信秀が死去(42歳)したとき、葬儀に現れた信長が抹香を掴んで位牌に投げつけたという有名な出来事があったのも萬松寺だった。
 1610年、名古屋城が築城される際に、萬松寺の敷地は加藤清正の普請場として使われることとなり、寺は小林邑(今の大須3丁目)に移された。
 桜天神はそのままここにとどまることになる。
 萬松寺は小林邑でも二万二千坪以上の敷地を有したものの、明治になると衰退し、大正元年に寺の大部分を町に開放することになった。これが後に大須商店街の発展へとつながっていくことになる。
 現在の萬松寺は自社ビルの中に寺が入っているという斬新なスタイルとなっている。

『尾張名所図会』に加藤清正石引きの絵が載っている。
「慶長十五年御城御造営の時、加藤肥後侯萬松寺を旅宿とせられしは、今の櫻天神の境地なり。此侯五重の天守閣を立てられし時、熱田の方より大石を運ばれしに、角石などの大なるを、毛氈(もうせん)数十枚にて包み、青き大綱にてまとひ、地車にのせ、五六千の人夫にて引かせられけり。児小姓の美少年に錦繍を粧させ、数十人を石の上に立て並べ、自身も片鎌の鑓(やり)を持ち、其中央に立ちて木やり歌をうたはる。さて那古野・清須の上人どもの、酒肴くだ物などを賣れるを、あたひの高下を論ぜず皆買ひとり、見物の諸人にこれをあたへ、菓子をなげちらして、手に手にひろはせければ、数萬の見物人まで、一度に綱の本末に取りつき、木やりの音頭につれ、思いおもひ聲を出し、暫時に普請場まで曳き付けたり。此小姓どもの美しき粧を、賤しき児女どもの見て、心をうごかさざるはなかりしとぞ」
 これを読む限り、完全なお祭り騒ぎだ。天下普請で清正や福島正則などはしぶしぶ行ったとされているけど、実際のところは、大イベントとして武士から庶民までが参加してけっこう楽しくやったのかもしれない。今でいえば、伊勢の神宮の式年遷宮とか、諏訪大社の御柱祭みたいなものだ。
 大石の上に着飾った子供を乗せ、清正が鑓を振り回しながら木遣り歌を歌い、商人は露店の物を買い占めて人々に分け与え、菓子を投げ、庶民は我も我もと綱を引き、それを大勢の群衆が見守る様子が思い浮かぶ。
 名古屋城天守の石垣の中に清正石と呼ばれる巨石がある。長さ6メートルほどなのでこの石の上に数十人が乗るというのは無理だろうし、実際に施工したのは黒田長政とされるので、この話は大げさな伝承ということになるのだけど。

 同じく『尾張名所図会』には桜天神を描いた絵図もある。
 萬松寺時代ほどではないにしても境内はけっこう広かったようで、鐘楼や薬師堂、絵馬堂や摂社、その他いくつもの建物が境内におさまっている。
 鐘楼は1661年(万治4年)に尾張藩二代藩主の光友が作らせたもので、昼と夜の12時に鐘を鳴らして時を知らせていたので時分鐘と呼ばれていた。
 絵図で見ると高さ10メートルくらいありそうだ。最初のものは1763年の火事で焼けたため翌年作り直したものの、明治6年(1873年)に取り壊されてしまった。
 絵馬堂は二月の例祭のときに寺子屋からたくさんの奉納があり、堂内に掛けられていたという。

 桜天神の名前の由来となった桜の大木は万治の火事のときに焼けてしまって残っていない。
 明治の神仏分離令の後、菅原神社と名称をあらためた。
 その頃、神社の前の道は菅原道と呼ばれる細い道でしかなかった。
 昭和12年(1937年)に国鉄名古屋駅が現在地に移転され、それに伴って菅原道が拡張されることになった。イチョウ並木が作られたのもこのときだ。
 この通りが正式に桜通となったのは昭和59年(1984年)のことなのだけど、それ以前から通称として桜通と呼ばれていたという。その呼び名が定着したのは昭和に入ってからのようだ。
 神社は昭和20年(1945年)3月の空襲で焼けてしまい、古いものは何も残っていない。
 今昔マップの昭和22年(1947年)を見ると、このあたり一帯が真っ白になっている。
 昭和23年(1947年)に天神社と改める。
 社殿が再建されたのは昭和29年(1954年)のことだった。
 その後、街が発展し、再開発される中でも桜天神はここに残り続けた。今では高いビルに取り囲まれて境内はごく狭くなってしまってはいるものの、それでもここにあることが大事なことだ。
 名古屋には桜天神の他に山田天満宮上野天満宮があり、三社を名古屋三天神と呼んでいる。この中で最も道真を感じるのは、ここ桜天神のような気がする。道真自作とされる神像も燃えてしまったけれど、道真さんの魂のかけらが今もここにあるようだ。
 駐車場もなく、前の大通りは短時間でも車を停車しておくのが難しいからなかなか立ち寄れないという人も多いかもしれないけど、近くを訪れた際は、萬松寺ともども歴史に思いを馳せながら参拝するといいんじゃないかと思う。

 

作成日 2017.2.19(最終更新日 2019.2.23)

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