神社が建っているのは江戸時代に開発された福田前新田の南端だ。 東を福田川が流れ、西には蟹江川と合流した日光川が流れている。 福田前新田は、1749年(寛延2年)に上萱津村(あま市)の林善蔵が開発したもので、善蔵新田とも呼ばれていた。西福田新田の南側を拡張する形で干拓したものだ。 『尾張徇行記』(1822年)はこう書いている。 「此新田ハ上萱津村人善蔵トイエル者開墾ス、因テ善蔵新田トモ唱エリ、同人作小屋アリテ其外ニ農屋ナシ、是ハ蟹江舟入ヨリ第一承佃シ、又西福田新田ヨリモ 承佃ストナリ」 江戸時代後期の1800年代になっても林家が一軒しかなかったということだ。 川に挟まれた土地ということでたびたび水に浸かって農地経営は上手くいかなかったようで、後に名古屋伊勢町の岡田家の所有となった。
今昔マップを見ると、明治中頃(1888-1898年)には北の方に家が数軒建っている。西福田新田との境の堤防南に集まっている形だ。福田川神社があるあたりは田んぼのみで民家はない。 大正から昭和にかけてもあまり変化はない。 1937-1938年の地図に貯水池のようなものができているのが確認できる。 1947年の地図で読み取れることは、貯水池がやや拡大したことと、田んぼだったところが空白地になっていることだ。戦時中に米作りができずに放棄されたのかもしれない。 1950年代の地図がないのでその頃の状況はよく分からない。 1960-1970年代になると北と西にぽつぽつ家が建ち始め、田んぼも一部復活してる。ただし、南端近くは荒れ地だったようだ。 1976-1980年には南の荒れ地だったところが畑もしくは牧草地になった。東側に排水機場ができたのがこの頃だ。 1980年から1990年にかけて北の方はやや発展したものの、南は相変わらずで、今もあまり変わっていない。 福田川河口排水機場は第2排水機場もできた。これは福田川の排水を日光川に流すためのものだ。
こういった変遷を見ても、福田川神社がいつ建てられたかを推測するのは難しい。今でこそ神社北側には畑が広がっており、民家も数軒建っているものの、江戸時代から明治にかけて集落があった場所ではないので、集落の守り神とは違う気がする。排水機場と関係があるのかないのかも判断がつかない。 社号標横には「昭和二十六年三月」とあり、「福田悪水普通水利組合」と刻まれている。悪水というのは今の下水のことで、やはり排水機場の建設と何らかの関わりがあるように思える。 鳥居裏には「平成十六年四月吉日」とある。建て替えか新築かは分からない。鳥居の上部が折れて継いだ跡があるので、強風か高潮かで折れたことがあるのだろう。 社は二社あり、向かって右がやや大きい。 銅版屋根の神明造で、内削ぎ千木、鰹木六本となっている。 社の前に「平成二十五年癸巳一月二十五日」と書かれた木に紙垂が結ばれたものが無造作に置いてある。 社はこのとき新しくしたものかもしれない。 いつ誰が何の神を祀るために建てたのか、分かりそうで分からないのがもどかしい。名前からしても福田川に関係があるのは間違いなさそうで、祀ったのは水神か龍神か秋葉あたりだろうか。 それにしても、こんな奥まった場所にある神社を地元民以外の誰が知っているだろう。
作成日 2018.10.2(最終更新日 2019.8.4)
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