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瑞光宮


ここは神社だろうか



瑞光宮

読み方ずいこう-ぐう
所在地名古屋市熱田区六番1丁目2-7 地図
創建年不明
旧社格・等級等不明
祭神猿田彦大神(さるたひこおおかみ)
アクセス地下鉄名港線「六番町駅」から徒歩約3分
駐車場 なし
その他 
オススメ度

 一般の家の前に注連縄の掛かった大きな鳥居があり、額には「瑞光宮」とある。
 神社といえば神社だろうし、違うといえば違う。
 向かって右手に「瑞光宮」「猿田彦大神」「光命殿 護摩祈祷」「祖霊殿 参集直来所」という看板が掲げられている。
 その他、猿田彦についての説明文や大きな絵馬、二階テラスには「除霊」「土地人家室」「各種祈祷」「導きの神猿田彦大神」「祖霊祭祀」などと書かれたものが掛かっている。
 教派神道でもなさそうで、団体名を表すようなものもないから、個人的な宗教組織ということになるだろうか。絵馬がけっこうたくさん掛かっているので、参拝者というか信者さんはけっこう多いのかもしれない。



 隣の建物は「神霊気学姓命研究所」となっていて、中でつながっているようにも見えた。
 瑞光宮の瑞光(ずいこう)は、吉兆を示すめでたい光のことをいう。
 ネット検索すると中国語っぽいサイトが引っかかるから、中国か台湾にそういう名前の寺院があるのかもしれない。こことの関係は不明だ。
 オリンパスのカメラを使っている人ならお馴染みのズイコー(Zuiko)レンズは、この瑞光という言葉から来ている。
 マピオンなどの地図上では「猿田彦大神瑞光宮」となっている。



 これ以上のことは分からないし、追求しない方がいいのかもしれないと思ったりもする。



 名古屋で猿田彦神を祀るとしている神社はそれほど多くないのだけど、小さなところはいくつかある。
 猿田彦を祀る総本社とされる三重県鈴鹿市の椿大神社(web)の名古屋支社という位置づけの千種区の千代ヶ丘椿神社
 ちょっとよく分からない熱田区旗屋の猿田彦宮
 かつての池の守り神、北区六が池町の猿田彦社
 なにやら怪しげな空気感に包まれた中川区中須町の齊宮社
 いくつかの民間信仰が絡まってできた熱田区須賀町の社宮司社
 名東区猪子石の地名の由来となった牡石で猿田彦を祀り、牝石で天宇受賣命(アメノウズメ)を祀る猪子石神社
 これらが猿田彦を祀るとしている神社で、その他、いくつかの稲荷社でウカノミタマと共に猿田彦と宇受賣をあわせて祀っているところがある。



 猿田彦は『古事記』、『日本書紀』では天孫降臨の瓊瓊杵尊(ニニギ)の道案内をした神として描かれる。
 長い鼻を持った大男という特徴から天狗のモデルとなったり、民間信仰の道祖神や庚申信仰と結びついて多様な性格を帯びることになった。
 総本社とされるのが伊勢国一宮の椿大神社で、うちこそ本家だと主張するのが伊勢の内宮(web)と外宮の間にある猿田彦神社(web)だ。
 伊勢の神宮の神職(玉串大内人)を長らく務めた宇治土公(うじのつちぎみ)が自宅内で祀っていたのを外に出したのが伊勢の猿田彦神社で、宇治土公氏は猿田彦の直系子孫を称していることから本家はうちだという主張になる。
 内宮の地主神とされる興玉神は猿田彦のこととされ、宇治土公氏は興玉神を祖神としている。
 興玉神は二見の夫婦岩のところの海中に鎮座するとされ、二見興玉神社(web)の祭神となっている。ここは天孫降臨で猿田彦がニニギ一行を出迎えた場所ともいう。
『日本書紀』は天孫ニニギの道案内を終えた猿田彦は故郷の伊勢国の五十鈴川上流にアメノウズメとともに帰っていき、伊勢の阿邪訶(あざか)の海で漁をしていたときに比良夫貝(ひらふがい)に手を挟まれて溺れたと書く。三重県松阪市の阿射加神社(web)でも猿田彦を主祭神として祀る。
 これらの話から、猿田彦は女神アマテラス以前に伊勢をおさめていた太陽神だったという説がある。
 伊勢とは関係のないところでいうと、滋賀県高島市の白鬚神社(web)が猿田彦を祀っている。
 この神社の縁起では、琵琶湖を気に入った猿田彦は住みついて、釣りを楽しむ白髭姿のおじいちゃんのようなイメージになっている。
 おじいちゃんで白髭ということから塩土老翁(シオツチノオジ)や武内宿禰(たけうちのすくね)とイメージが重なる部分がある。
 中世以降、猿田彦は様々な民間信仰と結びついていく。
 そのひとつが道祖神で、男女の姿で村の入り口や道の途中で旅人を守る道祖神と、猿田彦とアメノウズメが習合していったと考えられる。
 江戸時代に庚申信仰(こうしんしんこう)と結びついたのは、猿=申からで、江戸時代人らしい発想だ。
 庚申信仰というのは中国の道教の三尸説(さんしせつ)から来ているもので、日本では密教や修験道、呪術などとあわさって独自の発展を遂げた。
 庚申の夜、寝ている間に体の三尸虫(さんしちゅう)が出ていって天にその人の罪を告げるとされたため、虫が出ていかないように夜を徹して起きているという風習があった。
 守庚申(しゅこうしん)と呼ばれるこの行事が発展して、人々が集まって飲んだり騒いだりして徹夜したのが庚申待というものだった。
 その他、導きの神ということで新宗教の教祖として猿田彦は担ぎ出されたりもする。



 このように猿田彦は江戸時代まではメジャーな神であり、身近な存在だったのが、明治以降はマイナーな神になってしまった感がある。日常生活の中で猿田彦を意識して暮らすというようなことが少なくなっていったのが要因だろう。
 ただ、神社の祭神としてはもともとそれほどメジャーではなかった。江戸期の書、『尾張志』(1844年)や『尾張徇行記』(1822年)などでも猿田彦はほとんど出てこない。民間信仰の対象としての猿田彦はメジャーでも、神社の祭神としてはそれほど重視されていなかったようだ。
 そういう意味でいうと、猿田彦を祀る神社は昔に比べて減ったのではなくむしろ増えているくらいなのかもしれない。




作成日 2018.11.28(最終更新日 2019.9.18)


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