まず名前に惹かれた。男女守稲荷。 男女守は何と読むんだろう。素直に読めば「だんじょもり」、あるいは「なんにょ」か。守は「まもり」なのか「しゅ」なのか別の読み方なのか。 男女の神様が守ってくれているのか、男女を守るのか。 これが稲荷神社というからなかなか変わっている。
もともとこの場所には八幡社(枇杷島)があったという。現在、その八幡社は480メートルほど南西(地図)の清音寺の東に移っている。 その八幡社が創建されたのが1529年で、遷座したのが1612年と神社の由緒は伝える。 おそれくそれは、江戸時代に入って名古屋城が築城され、清須越で町ごと名古屋城下に移る中で、美濃路が発展したことと関係があるだろう。現在の八幡社の前の道が旧美濃路だ。 となれば、八幡社の跡地に男女守稲荷が建てられたのは1612年以降ということになる。 ただ、話をややこしくしているのが境内社の白要龍王・白王龍王を祀る神社の存在だ。 言い伝えとして、境内に説明書きがある。
それによると、天文年間に龍王は「琵琶里」の守護神として鎮座していたという。 枇杷島の地名の由来は、琵琶の名手だった藤原師長の逸話から来ているという説を瑞穂区の嶋川稲荷社のページに書いた。 天文年間は1532年から1555年の間だから、1529年の八幡社創建の後に龍王を祀るようになったということになる。 その後、八幡社が移ったことでここが荒れ果ててしまったのだけど、子供が竹や木の枝を折っても神罰が下るということで神域として保たれ、御神酒を供えて願掛けをしたところ願いが叶ったため、男女守稲荷の境内に奥宮という形で祀るようになったと説明する。
八幡社が移されたとき、龍神はここに置いていかれてしまったのは何故なのか。 結局、男女守稲荷はいつ建てられたのか。誰が建てたのか。肝心なそのあたりの経緯が分からないのでもやもや感が残る。 調査はここで手詰まりとなった。 男女守という社名がどこから来たのかも知りたいところだ。 名前だけでなく、神社の雰囲気としても印象を残すところだった。
追記 2020.7.25 地元の人たちは「みなもり」と呼んでいると教えていただいた。 老若男女、皆を守るということで「みんなもり」が転じて「みなもり」になったということらしい。なるほど。 せっかく説明板もあることだし、男女守にフリガナを振ってもらえると訪れる人も戸惑わずに済むのではないかと思う。
作成日 2017.11.7(最終更新日 2020.7.25)
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