アパートの駐車場の隅に「樫ノ木龍神」と彫られた石碑が建っている。 西区城西にある樫ノ木龍神(廃社)と同じ名前ということで関係があるのかと思ったのだけど、どうやら関係はなさそうだ。 昭和区のページなどによると、隣のメゾン西畑の奥さま(現オーナーのお母さん)が、川原通で龍神が苦しんでいる夢を見て確かめにいったところ、樫ノ木龍神の石碑が落ちていたため、自分のところに持ち帰って敷地で祀ることにしたのだとか。 それが昭和31年の話で、石碑の横には昭和十四年と刻まれている(十二月?)。 この話はたぶん本当なんだろうけど、そもそも樫ノ木龍神はどこに祀られていて、何故川原通に捨て置かれることになったのかという謎は残る。
川原通は龍神石碑がある西を南北に通っている道で、少し南で東西の通りの153号線と交差している。153号線の南を平行に走るのが旧飯田街道で、交差点の少し西に式内の川原神社(地図)がある。 飯田街道と呼ばれる道は何本かあった中で、昭和区川名を通る道は名古屋城下と岡﨑、駿河方面を結ぶ道で岡﨑街道、駿河街道とも呼ばれていた。 今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見ると、飯田街道は通っているものの、南北の川原通はまだ通っていない。 集落は西に川名村があり、東北に伊勝村があった。ふたつの村をつなぐ細い道があり、集落の外は農地が広がっている。大きな溜め池があるから、これが農業用水として使われていたのだろう。他にも小さな溜め池がいくつかあったようだ。 西畑は丘陵地帯で、この頃はまだ何もない。周囲には家もなく、東の養林寺や願成寺も描かれていないから、このときはまだここになかったということだろう。 1920年(大正9年)の地図を見ると、尾張電気軌道が通ったことが分かる。後にこの路線が廃線になって153号線になる。 昭和に入り、鉄道は新三河鉄道になり、あたり一帯は区画整理されて家が増えた。 西畑は東の伊勝村が拡張する格好で家が建っていった。西畑の地名は、伊勝村の人間が西に畑を開墾したことから来ている。 1937-1938年(昭和12-13年)の地図には南北に走る川原通が描かれている。この少し前に道ができたということだ。 この川原通の造成と樫ノ木龍神が関わっている可能性は考えられるものの、石碑の年が昭和14年なので、川原通の工事に伴って移されたということではないかもしれない。 樫ノ木龍神の名前からして樫の木に龍神を祀ったと考えるのが自然で、その樫の木を切り倒すことになって、その後に石碑を建てたということだろうか。その樫の木がどこにあったかについては知りようがなく、奥さんが川原通で石碑を拾ったからといって、もともとその場所に祀られていたとも限らない。 あるいは、溜め池に棲む龍神を祀っていたのが、池が埋め立てられて、その後に石碑として祀ったということかもしれない。 戦争中に捨て置かれたということは考えられるのだけど、終戦の昭和20年から奥さんが石碑を拾う昭和31年までは10年以上の歳月が流れている。その間、この石碑はどこでどうなっていたのか。奥さんが石碑を拾ったときの状況がもう少し詳しく伝わっているとよかったのだけど。 戦後、川原通一帯は住宅地として発展し、1960年代には隙間がないくらい家が建った。 1947年の地図から現れる卍マークは養林寺だろうか。養林寺や成願寺は戦時中に強制疎開させられたという話があるから、戦後になってここに移ってきたということだろう。 養林寺というと、瑞穂区の神明社(中山町)のところで出てきた。江戸時代前期の1667年(寛文7年)に養林寺住職の専誉上人が藤塚の古墳(八高古墳)の上に祠を祀ったのが中山町神明社始まりという。
石碑はなんとなくお墓っぽくなっている。周囲を石材で囲み、白石が敷かれている。意識してお墓のようにしたのか、たまたまそうなっただけなのかは分からない。 正面にある木はなんだろう。ひょっとすると樫の木だろうか。樫の木ならドングリがなるから秋に行くと分かるかもしれない。 アパートの駐車場の一角は龍神さんにとって安住の地となっただろうか。
作成日 2018.11.30(最終更新日 2019.3.21)
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