かつての東起村(ひがしおこしむら)、今の東起町にある白山社。 東起の地名について津田正生は『尾張国地名考』の中で、「起は新治(にひはり)の義なり 東の字いまだ考へず」と書いている。 庄内川を挟んで西側には下之一色村があり、古くふたつの村は一体だったという話があるから、下之一色村の人間が庄内川を越えて東側を耕したことが村名の興りということは考えられる。 東起村は、百曲街道のすぐ北に位置している。江戸時代前期に干拓によって熱田新田を作ったときの北の堤防がのちに道となり、曲がりくねっていることから百曲街道と呼ばれるようになった。 江戸時代初期までここは海辺の集落だったということだ。今では海はだいぶ遠くなった。
『寛文村々覚書』(1670年頃)の東起村の項にはこうある。 「白山壱社 前々除 横井村 祢宜 甚大夫持分」 前々除とあるので、1608年の備前検地以前からあったということだ。 『尾張徇行記』(1822年)ではこうなっている。 「白山社界内三畝前々除 府志ニモ載レリ 横井村祠官書上張ニ、境内三畝前々除、勧請ノ初ハ知レズ、再建ハ万治二戌年也」 再建の万治2年は1659年に当たる。 『尾張志』でも「白山ノ社 東起村にあり」とあるので、江戸時代を通じて東起村の中心神社は白山社だったようだ。
『愛知縣神社名鑑』はこの神社についてこう書いている。 「社伝によれば天正年間(1573-1591)東起城主前田三郎四郎和春が荒子観音の山門の神として建立したという。城主の殉後は廃城となり、白山社も衰微したが寛永十六年(1639)社殿の修復がありその後も度々改築があった。明治4年5月、村社に列格する。昭和48年、社殿を造営、社務所を改築した」 東起城(ひがしおこしじょう)は現・白山社の南西あたりにあったとされる戦国の城だ。 城主の前田三郎四郎和春についてはあまり知られておらず、前田利昌・利家親子との血縁関係も不明だ。尾張前田本家筋の与十郎家の人間という話もあるけど定かではない。 東起城が築城されたのは天文年間(1532-1555年)といい、それは荒子城築城の後らしい。 前田城の城主だった前田利昌が荒子城を築いて移ったのが1554年。 だとすれば、東起城の築城は1554年か1555年ということになるのだけど、そこまで限定していいものかどうか。 前田利昌の息子の利家(四男)が生まれたのが1538年(1537年や1539年説もある)。 前田三郎四郎和春は1584年の小牧長久手の戦いで秀吉方として参戦して戦死したと伝わる。 前田三郎四郎和春が白山社を創建したとして、それが天正年間(1573-1591年)だというのなら、1554年から戦死する1584年までの間となる。 しかし、分からないのは「荒子観音の山門の神として建立した」という部分だ。 荒子観音は奈良時代前期の728年に泰澄が開山したともいう古い寺だ。当初どこに建てられたのかはよく分からない。江戸時代中期に高畑あたりから現在の荒子に移されたという話もある。 東起城から見て荒子観音は2.5キロほど離れている。もし高畑にあったとすれば3.5キロ以上離れているということになる。この距離感で「山門の神」というのは無理がある。 もともと荒子観音の門前にあったものを、江戸時代に入って現在地に移したということだろうか。 「城主の殉後は廃城となり、白山社も衰微したが寛永十六年(1639)社殿の修復があり」ということからすると、前田三郎四郎和春が死去して東起城が廃城になった後、白山社も捨て置かれて荒れていたものを江戸時代に入って再建したとも考えられる。 ただその場合、荒子観音の門前社というよりも東起城の守り神として創建したという方が自然だ。城から見て北東に位置することから鬼門守護のために建てたのかもしれない。
『寛文村々覚書』は東起城について記している。 「古城跡壱ヶ所 先年前田三郎四郎居城之由、今ハ畑ニ成ル」 築城から100年も経てばそれは古城跡であり、今ハ畑ニ成ルのも当然のことか。 「むざんやな 甲(かぶと)の下の きりぎりす」は、松尾芭蕉が『おくの細道』の中で詠んだ句だ。元禄2年(1689年)、小松市の多太神社を訪れたときのことだった。 多太神社は、篠原合戦で討死した斎藤実盛の兜を所蔵する神社だ。 戦国時代、多くの城が築かれ、そのほとんどは姿を消した。しかし、それに付随した神社の多くが残った。 東起の白山社もまた、そういう神社のひとつと見ていいのではないかと思うけどどうだろう。
作成日 2017.10.24(最終更新日 2019.7.1)
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