中村区の西部、稲葉地町にある神明社なので稲葉地神明社と呼ばれている。 北東700メートルほどのところにも神明社があり、そちらは城屋敷神明社(地図)といっている。 稲葉地神明社を下之切神明社、城屋敷神明社を上ノ切神明社と昔から呼んでいた。
『愛知縣神社名鑑』にはこうある。 「創建は明かではない。『尾張殉行記』に再建寛文十一年亥年(1671年)也とあり、稲葉地下の切の氏神にまします。境内には、春日、八幡、秋葉、神明の諸社を祀る」
『寛文村々覚書』(1670年)の稲葉地村の項を見るとこうなっている。 「社 六ヶ所 内 神明二社 大明神 権現 八幡 白山 岩塚村祢宜 善大夫持分 社内八畝廿八歩 前々除」 「社 弐ヶ所 内 八幡 神明 社内年貢地 右同人持分」 このうち、神明二社が稲葉地神明社と城屋敷神明社のことだろう。 大明神は稲葉地村の支村という位置づけの東宿にあった明神社のことだと思う。東宿はもともと萱津宿の出郷だった。 他の権現や八幡、神明社などは稲葉地と城屋敷の神明社に移されて境内社となっている。
『尾張徇行記』(1822年)に、「岩塚村祠官吉田内記書上帳ニ」として毘沙門社や天王社、大日社、十二権現社などが挙げられている。 神明社については「社内二畝外ニ田六畝倶ニ前々除、末社八幡社春日大明神社」と書いているのだけど、どちらの神明社を指しているのか分からない。 『愛知縣神社名鑑』が書いている「再建寛文十一年亥年」は別の神明社のことで、稲葉地神明社でも城屋敷神明社でもないと思われる。
『尾張志』(1844年)ではこうなっている。 「神明社 天照大御神をまつる村の氏神也境内の末社八幡ノ社春日ノ社 白山ノ社 八幡ノ社 二所 十二所ノ社 氏神より卯の方にあり 毘沙門ノ社 鎮守ノ社 氏神より午の方にあり 神明ノ社 小鍋といふ處にあり境内の末社八幡社春日ノ社あり 大日ノ社 大明神ノ社 東宿といふ處にあり此處の氏神也 神明社 八幡社 六石新田にあり 天王ノ社 氏神より辰の方にあり」 ここから判断すると、村の氏神の神明社が城屋敷の神明社で、午の方、つまりその南にある鎮守社がこの稲葉地の神明社のことかもしれない。 違うとすればもうひとつの神明社か、小鍋の神明社だろうか。 そのあたりの判断がつかない。 いずれにしても前々除とあることから、江戸時代以前にはあったことはおそらく間違いない。 境内の由緒書きにある「延寳(延宝/えんぽう)七年より以前の創建」というのは何を根拠にしているのだろう。延宝七年に再建したという棟札が残っているのだろうか。
今昔マップを見ると稲葉地村は明治中頃(1888-1898年)にはすでに大きな集落になっていたことが分かる。神社の数の多さからしても、集落自体が古いのだろう。 位置でいうと、岩塚村の北、中村の西で、少し西を庄内川と新川が平行して流れている。 北は古くからの鎌倉街道で、南は新しい佐屋街道だから、東宿と岩塚村が賑わうのは分かる。しかし、その中間の稲葉地が大きな集落になった理由はよく分からない。人が暮らすのに適した場所だっただろうか。 大正時代に庄内川と新川に大正橋が架かったものの、村の様子に大きな変化はなく、農村地帯から住宅地に変わったのは戦後のことだ。1960年代以降、急速に発展して田んぼも姿を消した。
境内には松の巨木がたくさんあり、独特の景観を作っている。街道沿いではないのに旧街道沿いを思わせる。 本殿は神明造ながら拝殿は妻入りの舞殿型で屋根は瓦葺きになっており、拝殿と本殿は瓦屋根付の渡殿でつながっている。 境内の空気感からしてもここは神明社らしくないと感じた。
作成日 2017.6.6(最終更新日 2019.4.28)
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