なんとなく暗い神社だなというのが第一印象だった。空気がやや重く、神仏習合の名残が色濃い。他の神社とは少し異質なものを感じた。 しかし、二度目に訪れたときはそんなふうではなく、空気は軽かった。訪れたときの状況や自分自身の状態によっても印象というのは変わるものだ。第一印象をあまり当てにしない方がいいかもしれない。
『愛知縣神社名鑑』はこう書いている。 「創建は明らかでない。古くは隣りの漸東寺境内に鎮座したが、神明社の現境内に遷し合せ祀るという。明治5年、村社に列格した。大正9年秋、社殿を改築社務所を新築する。大正10年9月13日、指定社となる。昭和45年都市計画により境内地に変更を生じ社殿の移動を機会に増改築し整備完成する」
漸東寺(ぜんとうじ/地図)は神社の東南200メートルほどのところにある臨済宗妙心寺派の寺だ。 天文13年(1544年)に矢田川が決壊したときに流れ着いた薬師如来を祀る薬師堂がある。 そのとき十二神将のうちの二体も一緒に流されてきて、ある人がそれを祀って堂を建てたということが『尾張徇行記』(1822年)に書かれている。 山号の鳳来寺(ほうらいじ)は、漸東寺の薬師如来像が愛知県新城市の鳳来寺山にある鳳来寺(web)の本尊である薬師如来像と同じ木から彫られたものだという言い伝えがあることから来ている。 鳳来寺は702年に利修仙人が開山したと伝わる古刹で、本尊の薬師如来はその利修作とされている。もし同じ木から彫ったとすれば同じ年代で、流れ着いたのを拾ったとしてももともとあった寺は分かるのではないか。ときどきこういう話が出てくるけど、洪水などで流された場合は拾った人のものになるという取り決めでもあったのだろうか。流されてしまった寺を再建するとき返してもらうことはできなかったのか。 ちなみに、矢田川は江戸時代中期の1768年の大洪水によって流れを大きく北に変えることになった。それまでは長母寺(地図)の南、漸東寺のすぐ北を流れていた。
話を戻すと、この白山社は古くはその漸東寺の境内に祀られる鎮守社だったということだ。 今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見ると、今の白山社のところにある鳥居マークは神明社のものだろう。漸東寺のところには卍マークしかない。 白山社を神明社に移したとき、どうして神明社ではなく白山社と称したのかは分からない。力関係で白山社の方が格上ということだったのか。 移したのがいつだったのかという情報がないため詳しい経緯は分からない。江戸時代に入ってからだったのか、それ以前なのかも不明だ。
江戸期の書の春日井郡矢田村の項を見るとそれぞれこうなっている。
『寛文村々覚書』(1670年頃) 「社三ヶ所 内 六社大明神 社内六反歩 前々除 瀬古村祢宜 吉太夫持分 白山 神明 社内年貢地 当所 漸東寺持分」
『尾張徇行記』(1822年) 「白山神明祠界内年貢地」 「六社大明神祠界内六反前々除」
『尾張志』(1844年) 「六所社 白山社 神明社 シャグジノ社」
六所大明神は矢田の六所神社のことで、これは鎌倉時代前期の1190年頃に、山田重忠が創建したのが始まりとされる古い神社で(個人的にこの話はあまり信じていないのだけど)、前々除になっている。 神明と白山は、それぞれ年貢地とある。『寛文村々覚書』が編さんされた1650年代にはあったことが分かるものの、前々除となっていないということは江戸時代に入ってからの創建か。 漸東寺の創建年が分からないので白山社の創建についても不明ということになる。 シャグジノ社は、現在白山社の境内社となっている社宮司社のことだろう。 『愛知縣神社名鑑』には、「昭和45年都市計画により境内地に変更を生じ社殿の移動を機会に増改築し整備完成する」とあるから、それ以前と以後では神社の様子もかなり変わったのだろう。 神社のすぐ北に名鉄瀬戸線の高架があるから、これと関係がありそうだ。もともと境内はもう少し北側まで広がっていて、社殿も今より北にあったのではないかと思う。
拝殿の彫り物が凝っている。額の下の龍はなかなかいい。 拝殿の四面には十二支の動物が彫られている。ただ、数が足りない。どこか別の場所に彫られているのだろうか。 神楽殿には三つの翁の面が掲げられている。他ではこんなものは見たことがない。どんな意味があるのだろう。 境内の一角には御嶽ワールドもあって、全体的に不思議なテイストが漂っている。もはや神明社感はほとんど残っていない。
【追記】2021.4.15
拝殿に棟札を写したと思われる写真が貼ってある。 棟札が焼けているのか写真が焼けているのか、ところどころ黒くなっていて読めない部分がある。それと、写真自体がすっかり日焼けしてしまっていて印刷が薄くなっているのに加えて、ガラスに風景と光が反射して現地ではほとんど読み取ることができない。 守山郷土史研究会の『もりやま 第17号』に棟札の写真が載っており、その写真は鮮明なので以下に書き記しておく。
干時天保第八龍舎丁酉中冬十有五日 選吉祥以造立安置者也同八月十四日大風 之而當社吹倒依而再建
庄屋 水野善兵衛 同 森茂八 氏子中 大工 大野友吉
尾州春日井郡山田庄矢田村 鳳来山漸東禅寺三世現住太田恵忠謹拝曰
天保8年(1837年)の8月14日に大風で社が吹き倒れたので、良い日を選んで11月15日に社を再建したという内容だ。 庄屋の水野善兵衛と森茂八がお金を出して中心となったのだろう。 この棟札を書いたのは東禅寺の当時の住職だった太田恵忠住職といういとになる。 東禅寺の由緒書に天保9年に本堂を再建したとあるということなので、天保8年の大風というのはかなり強い台風だったのだろう。
『もりやま 第17号』からさらに分かったこととしては、天保一二年の矢田村村絵図に東禅寺の西に白山宮が描かれているということだ。 再建された天保8年から天保12年の間のどこかで白山社(白山宮)が東禅寺から出されて現在地に移されたと考えられる。 ただ、社地は独立させても明治までは東禅寺の持ち分だったのではないかと思う。
【追記ここまで】
近くの商店街では白山社の例祭にあわせて祭りを行っているそうだ。『愛知縣神社名鑑』では例祭日を10月17日としているけど、近年はこの日に近い日曜日にしているのではないかと思う。 矢田のあたりは古い商店もわずかに残っている。 白山社の例祭では特殊神事の赤丸神事が行われていていた。今もまだ続いているだろうか。 7歳くらいまでの子供に、疳(かん)の虫が起きないようにと祈願するもので、疳の虫が入るとされる頭の大泉門に朱を付ける。 名古屋の一部の神社ではこの風習が残っていて、茅の輪くぐりとあわせてやっているところもある。
作成日 2018.1.9(最終更新日 2021.4.15)
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