大須の街としての歴史は江戸時代はじめの1610年に名古屋城(web)ができて清須から町ごと引っ越しをした清須越に始まる。大須という地名も、もともとは美濃国中島郡長岡荘大須郷(岐阜県羽島市)にあった大須観音こと真福寺寶生院(web)を1620年に名古屋城下に移して以降のものだ。 しかし、大須の土地の歴史はもっと古く、少なくとも縄文時代までさかのぼる。
名古屋の歴史を語る上で熱田台地は重要だ。象の鼻にたとえられる南北に細長い台地で、古代は海に突き出す格好の岬だった。 南端に熱田神宮(web)があり、中央の古渡(金山)を挟んで北西端に名古屋城(地図)が建てられた。 南の断夫山古墳(だんぷさんこふん/地図)は東海地方最大の前方後円墳で、その北の高蔵遺跡(地図)からは旧石器時代の石器や弥生時代の遺跡、古墳群が見つかっている。 金山駅周辺(古渡)からは弥生時代の正木町遺跡や伊勢山中学校遺跡などが知られている他、尾張最古の寺ともされる尾張元興寺(願興寺)があった(7世紀半ば建立)。古渡には古東海道の新溝駅があったともいわれる。 熱田台地の中央部には那古野山古墳、大須二子山古墳、浅間神社古墳、日出神社古墳などがあった。 大須の北には縄文時代の竪三蔵通遺跡、白川公園遺跡、旧紫川遺跡があり、竪三蔵通遺跡からは約3万年前の旧石器時代のナイフ型石器が見つかっている。 その北の空白地を挟んで、台地北辺には名古屋城天守閣貝塚、三の丸遺跡、長久寺遺跡、片山神社遺跡など、縄文時代から古墳時代にかけての遺跡が確認されている。 神社を南から見ていくと、熱田神宮、八剣宮、高座結御子神社などはいずれも式内社で、中央部の日置神社も式内社とされる。それに加えて台地の西の縁近くに建つ洲崎神社や泥江縣神社、北部の天王、八王子、若宮などは式内社ではないものの古い創建と考えられている。 大須白山神社は熱田台地中央部の西端近くにある。北西400メートルほどのところに大須二子山古墳(消滅)があり、那古野山古墳や日出神社古墳も近い。 大正時代までは今の若宮大通を東から西に紫川が流れていた。大須白山神社はその川のすぐ南だ。 西を南北に流れる堀川は江戸時代に名古屋城築城と同時進行で掘られた人口の河川なのだけど、元となる自然河川があったともいわれる。 海辺で川もある高台となると、住むにも古墳を築くにも適した場所だったのだろう。 大須白山神社の社殿は盛り上がった土の上に建っていて、ここも古墳ではないかと思わせる。けっこう古い神社かもしれない。
『愛知縣神社名鑑』はこの神社についてこう書いている。 「往古より鎮座の産土神で享保9年(1724)5月の日置大火の際に宝物、古文書類を失うも、古代祭儀用の小鍬六挺と貞享年(1684-1687)の社殿の修理、元禄年間(1688-1703)鳥居修繕の寺社奉行差出書状の写、往古使用の銅印(日置産土)、秀吉が参拝の古文書等、又宝永三丙戌年(1706)3月修復、享保年、元文(1736)の棟札を社蔵する」
日置産土(ひおきうぶすな)と刻まれた銅印が残っているくらいだから古いには古い。古代祭儀用の小鍬というのはどういうものなのだろう。 平安時代、このあたりは日置荘と呼ばれ、松原に拠点があったと考えられている。大須白山神社の南、150メートルほどのところだ(地図)。 のちに日置城が建てられたのは松原の大楠があるあたりとされる。
『寛文村々覚書』(1670年頃)の日置村の項には、「社五ヶ所内 八幡 山王 白山権現 山神 熱田祢宜織大夫持分 神明 当所 観福寺持分」とある。 『尾張徇行記』(1822年)によると、小川町の東にあって、山神と山王を熱田祢宜の大原織大夫が祠官を務めるとしている。 『尾張志』(1844年)は「白山社 日置の山神社の北西の方にあり 菊理媛を祭るといへり 初めて祭れる年月知かたし 摂社 山王社」としている。 江戸時代の途中で山王社が白山社の摂社になったようだ。現在は日吉神社と名前を変えて境内に半ば独立した格好で鎮座している。 山神社(地図)は大須通を隔てて南に現存する。 八幡は今の日置神社のことで、神明は明治42年(1909年)に日置神社に合祀された。
このあたりはかつて鶯谷(うぐいすだに)と呼ばれていた。 『尾張名所図会』(1844年)にはこうある。 「鶯谷 日置小川町の東、白山のあたりをいふ。今も人家まばらなる陋巷(ろうこう)なれば、鶯の啼く音(ね)も一入(ひとしお)静かに聞きなさるる所なり。 今の大須を知っている人間からするとそんな景色を思い描くことは難しい。しかも大昔のことではなく江戸時代後期のことなのだ。 浅井広国が明治26年に出した『尾張名所独案内』にはこう書かれている。 「須崎橋の数丁(すうちょう)北堀川の東岸に添ふて紫川(むらさきがわ)の下流なり 往古は此近傍(このきんぼう)は峻厳(しゅんげん)なる山谷(さんごく)にして此処に鳴く鶯は有名なる者なりしが今は只わずかに小溝のあるのみなり」 明治に入るとかつての面影は消えていったようだ。 今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見ても、このあたりにもびっしり建物が建っていて、鶯が啼く谷といった風情はまったく感じられない。
大須といっても大須観音(地図)や商店街があるのはここより東の大須2丁目、3丁目で、白山神社のある大須1丁目は繁華街ではなく住宅街だ。 町名の変遷をいうと、江戸時代中期の1765年に町屋として成立して小川町となった。ここに住んでいた小川さんにちなんだものという。 明治11年(1878年)にいったん鶯谷の地名が復活する。 明治、大正を通じて鶯谷町の町名は続き、昭和11年(1936年)に中区岩井通に編入されて鶯谷の町名は消滅した。 昭和52年(1977年)に中区大須1丁目となり、現在に到る。 地図上では鶯谷という表記は確認できないのだけど、どこかに残っているかもしれない。
白山神社で朱塗りの鳥居は珍しい。 拝殿前に幅の広い石段があり、拝殿奥の本殿は更に一段高いところにある。横から見ると土地がこんもり盛り上がっていてやはり古墳を思わせる。古墳の上に白山神社というのはよくあるパターンで、ここもそうだった可能性があるのではないか。 拝殿前にだけ玉砂利が敷かれているのは他では見たことがない。『尾張名所図会』の絵を見ると、拝殿と祭文殿の間のにだけ玉砂利が敷かれている神社があるので、江戸時代はそれがスタンダードなスタイルだったのかもしれない。 雰囲気からしても、体感からしても、ここは古いなと思った。訪れた際はこの神社についての知識がまったくなかったのだけど、そんな感じがした。神社の古さなのか土地の古さなのかは分からない。 後になってじわじわと効いてくるような神社がある。現場ではそれほど強い印象はなかったのに時間が経ってあれはいい神社だったんじゃないかと思うようになるということがたまにある。 この大須白山神社はそういう神社のひとつとして記憶に残ることになった。
作成日 2017.6.28(最終更新日 2019.9.15)
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