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稲荷社(道徳)

道徳プライドとでもいうべきもの

道徳稲荷社

読み方 いなり-しゃ(どうとく)
所在地 名古屋市南区豊田1丁目20-21 地図
創建年 1821年(江戸時代後期)
旧社格・等級等 指定村社・十二等級
祭神 倉稲魂命(うかのみたまのみこと)
アクセス 名鉄常滑線「道徳駅」から徒歩約4分
駐車場 なし
その他 例祭 10月10日
オススメ度

 道徳の稲荷社と称しているけど、ここはどう見ても神明社だ。どうして神明社でないのだろうと不思議に思った。
 入り口には稲荷神社の社号標があり、狛犬と獅子がいる。神明鳥居をくぐって進むと舞殿型の拝殿があって、高台に神明造の社がある。その左右には末社が5社並ぶ。それとは別に本社の向かって左手に稲荷鳥居があり、稲荷社の社がある。
 どういうことなのか分からず混乱する。後から調べてある程度は理解できたのだけど、やはりどうして稲荷社を名乗っているのかはよく分からない。

『愛知縣神社名鑑』は祭神を倉稲魂命(うかのみたまのみこと)として、こう書いている。
「社伝に文政三年(1820)8月15日、勧請という。大正5年10月5日、村社に列格する。大正13年11月25日、供進指定社となる。昭和20年5月、空襲により社殿炎上、昭和28年再建昭和34年9月、伊勢湾台風により社殿流失す。昭和37年10月氏子の熱意により社殿及社務所を造営復興した」
 神社があるのはかつての道徳前新田で、その守護神として祀られたとされる。道徳前新田の完成は文政4年(1821年)だから、その年に創建されたと考えるのが自然だけど、前倒しで完成の一年前に神社を建てた可能性もあるだろうか。
『南区神社名鑑』では文化14年(1817年)としており、『南区の神社を巡る』は文政4年(1821年)を創建年とする。
 境内にある由緒碑(昭和11年建立)は「文政三年 辛巳八月十五日勧請」としている。文政3年は1820年だ。

『尾張志』(1844年)は「神明ノ社 天王ノ社 稲荷ノ社 三社ともに道徳新田にあり」と書いている。
『尾張志』が完成した1844年時点で神明社、天王社、稲荷社の3社があったことが分かる。このうちの稲荷社と神明社が合体して道徳稲荷神社になったのだと思うのだけど、そのあたりの経緯についての詳しい記録や情報がない。
 神明社は文政4年(1821年)創建というから、もしかすると稲荷社が文政3年に建てられて、神明社が翌文政4年創建で、それが合体したことで創建年がふたつあるようなことになってしまったのかもしれない。
 ただ、本社の左右にある5社は、神明社、熱田社、池鯉鮒社、多度社、秋葉社というから、中央の本社は倉稲魂命を祀る稲荷社なのかというと、最初に書いたようにどう見ても神明造の神明社で、なおかつ隣に独立した稲荷社があるので、やはり本体は稲荷社ではないのではないかと思われる。
 更に気になるのが本社の姿形で、2015年3月に撮れた写真と比べると2018年現在のものとまったく違っている。
 2015年は白塗りのコンクリート造に木の扉がついており、外削ぎ千木と鰹木五本が載っている。そして本社には朱塗りの欄干がついている。
 対して2018年の今は一般的な木造の神明造で、銅版屋根に内削ぎ千木と六本の鰹木が載る。
 あらたに建て直したというには社は古びており、3年やそこらしか経っていないとは思えない。どこかよそからもらってきたのだろうか。社殿様式もまったく違うし、謎すぎて分からない。
 昭和20年の空襲で焼け、昭和34年の伊勢湾台風で流されて、その後再建したときにいろいろなことがごちゃごちゃになってしまったというのはあるだろう。記録なども消失してしまったか。

 道徳の地名の由来を知るためには道徳新田の歴史を知る必要がある。
 道徳新田は1741年(寛保元年)に尾張藩によって開発された新田で、当初は戸部下前新田と呼んでいた。
 その後、天白川の氾濫を防ぐために天白川と山崎川をつないだところ、両方の川が氾濫を繰り返すようになり水路は埋め戻され、天白川下流の天白古川新田を取りつぶす代わりに替地としてこの地を尾張藩が開発して与えたため御替地新田と呼ばれるようになる。
 そのあたりの経緯については神明社(御替地)のページに書いた。
 1812年(文化9年)に尾張藩士の樋口好古が『尾張徇行記』を作るためにこの地を訪れ事情を聞き、尾張徳川家の政策である「道義をって徳を施す」にふさわしいエピソードだというで道徳と呼ぶようになったという。

 1817年(文化14年)に鷲尾善吉(本名・嘉十郎)が道徳新田の先を更に干拓して新田開発を始めた。そのとき善吉26歳。
 道徳稲荷社の創建を1817年(文化14年)とするのは、新田開発に先立って善吉が稲荷社を建てたということかもしれない。
 尾張藩から海岸を500両で買い取り、借金をしながら1821年になんとか新田を完成させ、道徳前新田と名づけた。
 最初は入植者43名と一緒に始めた。
 しかし、海に突き出す格好の道徳前新田はたびたび堤防が決壊し、田んぼは海水に浸かり、4年間ほぼ収穫ができなかった。借金がかさみ、家や畑を売っても間に合わず、新田そのものを担保にして借金をせざるを得ないところまで追い込まれてしまう。
 そしてついに立ちゆかなくなり、新田を手放すことになった。それが1824年のことだった。
 33歳、失意の善吉は故郷の海西郡塩田村に戻り、明治14年(1881年)に90歳でこの世を去るまで二度と道徳前新田を訪れることはなかったという。
 境内には鷲尾善吉翁頌徳碑が建っている。碑の裏には最初の入植者43人の名が刻まれている。
 道徳前新田は尾張藩御小納戸(おこなんど)の手に渡り、尾張藩のものとなった後、大正14年(1925年)に尾張徳川家より解放され、翌大正15年(1926年)に桟橋倉庫の所有となった。
 初期の入植者の子孫は今も道徳で暮らしているという。道徳の名とともに、この土地は自分たちの祖先が作り、自分たちが守っているという、いわば道徳プライドみたいなものがあるのかもしれない。ふと、そんなことを思った。
 道徳稲荷神社は、今昔マップを見ても明治から現在に至るまで場所が移っていない。戦争や災害のたびに同じ場所に建て直されている。

 境内にある青峯観音は、1837年(天保8年)に志摩の正福寺から勧請したもので、風水害除けの守り神として山崎川の左岸堤防上に祀られていた。
 熱田軌道が市電になった昭和15年(1940年)に稲荷社に移されている。
 これも空襲で消失し、戦後の昭和37年に再建された。
 かつては旧暦6月16日の祇園の夜に麦わらで作った舟に提灯を乗せて川に浮かべる青峯山祇園祭を行っていたという。
 大正時代に廃止され、2014年に90年ぶりに復活した。

 住居表示の変更で道徳本町は豊田に変わり、道徳の町名は少なくなってしまった今も、この地で暮らす人たちにとってこの地は道徳のままだ。道徳駅があり、道徳稲荷社もある。
 為政者は今一度、「道義をって徳を施す」精神を思い起こすためにも道徳稲荷神社を参拝した方がいいかもしれない。

 

作成日 2018.4.12(最終更新日 2019.8.26)

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