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東照宮(名古屋)


名古屋で家康を祀るちょっと地味な東照宮



名古屋東照宮拝殿

読み方とうしょう-ぐう(なごや)
所在地名古屋市中区丸の内2丁目3-37 地図
創建年1619年(江戸時代初期)
旧社格・等級等県社・八等級
祭神徳川家康(とくがわいえやす)
 アクセス地下鉄鶴舞線/桜通線「丸の内駅」1番出口から徒歩約5分
駐車場 なし
webサイト公式サイト
その他例祭 4月17日・試楽祭の神楽 4月16日
オススメ度**

 名古屋城(web)の南約900メートルにあり、那古野神社と並んでいる。
 祭神は徳川家康を神格化した東照大権現(とうしょうだいごんげん)。
 家康の九男で、尾張徳川家初代藩主の義直が、家康の三回忌(1618年)に大祭を行い、翌1619年に名古屋城の三之丸に創建した。当初、天王社(現在の那古野神社)と隣り合っており、三之丸東照宮とも呼ばれた。
 3,600坪の境内には極彩色が施された権現造の社殿を初め、楼門、唐門、渡殿、祭文殿など、御三家筆頭の尾張徳川家にふさわしい華麗な建築だったという。
『尾張名所図会』は「三の丸御宮の図」と題して描き、こう紹介している。
「御本社・祭文殿・渡殿・中門・瑞離・御供所・鐘楼・神輿殿・御寶蔵・御井・鳥居・楼門、何れも善美を盡(つく)し、或は朱粉丹青を施し、又は金銀銅鐵を鏤(ちりば)め、荘厳の美麗いふばかりなし」
 江戸時代は大変きらびやかな造りの神社だったことが分かる。
 それに加えて、本地堂には薬師の他に脇士、三菩薩、十二神将、四天王の像や護摩堂などもあり、神仏習合していたことがうかがえる。当時の人たちにとっての神社はそういうものだったのだろう。



『愛知縣神社名鑑』はこの神社についてこう書いている。
「元和五年(1619)9月17日、藩祖義直、城内三の丸天王社の西地を卜し、社殿を造営し家康の神像を奉安す。成瀬正成、竹越正信を奉行として鎮祭し社領千石を附した。元禄元年(1688)3月二代藩主光友重修す。寛文四年(1664)8月、正徳四年(1714)8月、元文五年(1740)12月、天明七年(1787)3月、寛政七年(1795)修復する。明治5年5月、村社に列格し、明治8年8月、県社に昇格する。明治9年10月5日、名古屋鎮台創設により今の社地に遷座した。明治8年6月20日、藩祖義直、明治31年4月、慶勝を合祀するも大正13年11月28日、義直、慶勝の二霊神は尾陽神社に移し奉る。建物は創建以来の権現造の本殿、桜門、唐門、透塀、楽所、国宝の建物が並び輪郭の美を極めたが、昭和20年の空襲で炎上し昭和29年義直公の正室高原院の霊廟を移築し本殿とした」



『尾張名所図会』によると、創建のときに大僧正の天海を招いていたようで、家康の神像を中央に、左に山王権現、右に日光権現を祀るとある。
 これは明治の神仏分離令のときに廃したのだろう。今は残っていない。



 1600年の関ヶ原の戦いのとき、家康は59歳だった。
 家康の九男・義直は1601年生まれなので、このときまだ生まれていない。
 75歳まで生きた家康とはいえ、当時としては驚異的な元気さだ。人一倍健康には気を遣っていたというけど、家康が50歳くらいで死んでいたらその後の歴史は大きく変わることになった。
 江戸幕府を開いたのが1603年。
 2年後の1605年、64歳で家督を秀忠に譲って、自身は駿府城(web)に移った。
 大坂冬の陣が1614年で73歳。翌年1615年の夏の陣のときも家康は自ら兵を率いて戦に参加している。大坂夏の陣で駕籠に乗っていたところを槍で突かれて討ち死にしたという話もあるのだけど、公式には1616年に駿府で死去したことになっている。鯛の天ぷらに当たったなどいう俗説もあるけど、実際は胃がんだったともいう。
 遺命により、遺骸は久能山に埋葬され、翌1617年に東照社(久能山東照宮/web)が創建された。
 葬儀は江戸の増上寺(web)で行い、位牌は故郷である三河国岡崎の大樹寺(web)に納め、一周忌が過ぎたら下野の日光山に小さな堂を建てて勧請するようにというのも家康生前の遺言だった。
 今ある豪華絢爛な日光東照宮(web)は、三代将軍家光による大規模な改修が行われたのちのものだ(1636年)。



 江戸の町を作ったのは家康と天海で、風水思想にのっとって設計されたという説がある。都市伝説っぽいけど、半分くらいは本当かもしれない。少なくとも天海が深く関わったことは間違いない。家康から三代に渡って将軍を陰ひなたで支えた。天海は実は明智光秀だったなどという話もあるけど、さすがにそれは無理がありそうだ。
 家康が死後に自ら神となることを望んだのには理由がある。それは徳川の世の中を長く存続させるためにそうでなければならなかったからだ。
 皇室の神である天照(アマテラス)に対抗して東照(アズマテラス)を名乗ったことにそれは表れている。東国(あずまのくに)、江戸を照らす神となるという宣言のようなものだ。
 簡単に言えば、徳川家に皇室のシステムを導入するというものだったと考えられる。自らが神となることで、血筋を引く子供が跡を継ぐことを正当化することがもっとも大切だった。
 家康は信長、秀吉の失敗を見て学んだはずだ。単に息子を後継者にするだけでは不十分で安定しないということが分かっていたに違いない。
 自分が神として祀られれば、子供は神の子孫となり、子々孫々それが正統となるというのが家康の考えだっただろう。
 宮家にならって徳川御三家を作って血筋が途絶えないようにし、大奥というシステムも原型は家康が考え出したものだったはずだ。
 天海が江戸幕府において大きな権限を持っていたのは、家康の死後に宗教戦争とでもいうべき争いに勝ったからだった。
 最初、神道の吉田家主導で、家康は大明神として祀られることになっていた。それに待ったをかけたのが天台宗の天海で、大明神は秀吉がつけて一代で滅んだから縁起が悪いなどと言い、大権現にしたという経緯がある。つまり、家康は神道の大明神ではなく、神仏習合(山王一実神道)の大権現になった。
 明治の神仏分離令によって東照宮は神社と寺院が分けられたけれど、いまだに渾然とした雰囲気が残っているのはそのせいだ。
 江戸時代には全国に500を超える東照宮が建てられたという。現在でも、東照宮という名前ではなくとも関係する神社は100以上あるそうだ。
 日光、久能山以外に有名なところとしては、群馬県太田市の世良田東照宮(1644年/web)、東京の上野東照宮(1627年/web)、愛知県の鳳来山東照宮(1651年/web)、愛知県豊田市の松平東照宮(1619 年/web)、滋賀県の日吉東照宮(1623年/web)などがある。



 九男の義直は1601年に大坂城西の丸、または京都伏見城で生まれたとされる。
 2歳で甲斐国25万石を拝領して甲斐藩主となるも、父・家康と生母・お亀の方とともに駿府城で成長した。
 1606年に元服。
 1607年、家康四男の松平忠吉が28歳で病死してしまったため、義直が清須藩を継ぐことになった。
 1610年、家康は大坂方の備えとして名古屋城を築いた。
 義直は大坂冬の陣で初陣を飾り、夏の陣にも参加した。
 1616年、家康が死去した後、義直は名古屋城に移り、初代尾張藩主となった。
 名古屋城に東照宮を建てたのはその3年後ということになる。
 家康が手元に置いて育てたのは見込みがあると思ったからだっただろうか。義直も期待に応えて尾張の名君と呼ばれる殿様になった。生涯、家康を尊敬していたと伝わっている。
 忠吉は二代将軍秀頼の同母弟で、非常に評判のいい人物だったから、忠吉が初代尾張藩主だったとしても名古屋城下は発展したことだろう。
 ただ、忠吉には嫡子がおらず、義直の息子の光友は義直以上の殿様だったから、義直でよかったのかもしれない。
 義直は1650年に51歳で死去した。遺言によって瀬戸の定光寺に葬られた。
『愛知縣神社名鑑』にもあるように、明治8年(1875年)に義直は東照宮で祀られ、その後、尾陽神社が建てられたとき、そちらで祀られるようになった。
 忠吉については富部神社のページに書いた。



 明治8年(1875年)、名古屋城内に名古屋鎮台(陸軍の部隊)が置かれることになり、三之丸東照宮は隣の天王社(那古野神社)とともに、旧藩校の明倫堂の跡地だった現在地に移された。
 明治8年(1875年)に県社に昇格。
 社殿その他をあわせて東照宮は戦前まで国宝だった。もし現存していたら、隣の那古野神社と名古屋城とあわせて世界遺産になっていただろう。
 昭和20年(1945年)の空襲で東照宮も天王社も名古屋城天守や本丸御殿もすべて焼失してしまった。
 現在の本殿は、義直の正室・春姫(高原院)の御霊屋を移したもので、これは1651年に万松寺(web)の境内に建てられたものだった。大正3年(1914年)に尾張徳川家の菩提寺・建中寺(web)に移されていたものを東照宮の本殿として流用する形になった。
 歴史のあるいい建物なのだけど、戦前の豪華な社殿からするとずいぶん地味になってしまった。
 戦前の東照宮社殿の1/20スケールの模型を東京大学工学部建築学科が所蔵している。昭和12年(1937年)に行われた調査をもとに制作されたもので、かなり実物に近い精巧なものとされる。
 戦前に撮られた写真を見ると、日光東照宮ほどきらびやかではないものの、柱の朱色や扉の彩色などがけっこう残っていたのが分かる。



 天王社の天王祭、若宮八幡社の若宮祭と並んで東照宮祭は名古屋三大祭とされた。戦前まで名古屋祭といえば東照宮祭のことだった。
 からくり人形を乗せた山車が練り歩き、最盛期には9台の山車が作られた。それらも空襲で失われ、現在は東区筒井町の湯取車だけが現存している。
 毎年、4月17日の家康の命日にあわせて例祭が行われる。前日の夜には、試楽祭として舞楽が奉納される。
 ちょうど境内のサトザクラが散る頃だ。



 人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし



 家康の遺訓とされるこの言葉は後世の創作という。ただ、家康の一生を思うと、とても家康の教えらしい教えだと思える。
 江戸幕府が続いた264年というのは、長かったのか短かったのか。東照宮の創建から400年。この先も家康は神として祀られ続けていくであろうことを思うと、家康のやり方は間違っていなかったように思うけどどうだろう。




作成日 2017.2.23(最終更新日 2019.2.26)


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