名古屋東照宮

名古屋で家康を祀るちょっと地味な東照宮

名古屋東照宮拝殿

読み方 なごや-とうしょうぐう
所在地 名古屋市中区丸の内2-3-37 地図
創建年 1619年(江戸時代初期)
社格等 県社・八等級
祭神

徳川家康(東照大権現)

 アクセス

・地下鉄鶴舞線/桜通線「丸の内駅」1番出口から徒歩約5分。
・駐車場 あり

webサイト  公式サイト
オススメ度 **

 名古屋城の南約900メートルにあり、那古野神社と並んでいる。
 祭神は、徳川家康を神格化した東照大権現(とうしょうだいごんげん)。
 家康の九男で、尾張徳川家初代藩主の義直が、家康の三回忌(1618年)に大祭を行い、翌1619年に名古屋城の三之丸に創建した。当初、亀尾天王社(現在の那古野神社)と隣り合っており、三之丸東照宮とも呼ばれた。
 3,600坪の境内には極彩色を施された権現造の社殿を初め、楼門、唐門、渡殿、祭文殿など、御三家筆頭の尾張徳川家にふさわしい華麗な建築だったという。
『尾張名所図会』に「三の丸御宮の図」と題して描かれている。それを見ると江戸期の神仏習合の様子がよく分かる。
 入り口には楼門があり、真っ直ぐ伸びる参道の中程に鳥居が建つ。その脇には鐘楼があり、参道脇に石灯籠が並ぶ。権現造の社殿を透塀がぐるりと取り囲み、入り口はやはり鳥居ではなく唐門になっている。
 現代人の感覚からすると神社と寺が混ざったような不思議な印象を受けるけど、当時の日本人にとっては当たり前のものだったのだろう。

 家康には時間がなかった。
 人一倍健康に気を遣っていたとはいえ、人生五十年の時代、いつまで長生きできるかは分からない。
 結局、75歳(数え年)まで生きることになるわけだけど、関ヶ原の戦いのときはすでに59歳だった。
 江戸幕府を開いたのが62歳(1603年)。64歳で家督を秀忠に譲り、駿府城に移って隠居するも、それは形だけで実質的な権力は家康が握っていたといわれる。
 大坂の陣は73歳、74歳のとき。家康自ら軍を率いて大坂入りしているのだから、相当元気だ。
 しかし、大坂夏の陣(1615年)で豊臣家を滅亡させてたことで安心して気が抜けたのか、翌1616年に駿府で死去。死因は胃がんだったというのが有力な説ではあるけど、この世での役割を終えてお役ご免といったところだろうか。家康がもし10年早く死んでいたら、その後の世の中はどうなっていたか分からない。
 遺命により、遺骸は久能山に埋葬され、翌1617年に東照社(久能山東照宮)が創建された。
 葬儀は江戸の増上寺で行い、位牌は故郷である三河国岡崎の大樹寺に納め、一周忌が過ぎたら下野の日光山に小さな堂を建てて勧請するようにというのも家康生前の遺言だった。
 今ある豪華絢爛な日光東照宮は、三代将軍家光による大規模な改修が行われたのちのものだ(1636年)。

 江戸の町を作ったのは家康と天海で、風水思想にのっとって設計されたという説がある。半分くらいは都市伝説っぽいけど、半分くらいは本当かもしれない。少なくとも天海が深く関わったことは間違いない。家康から三代に渡って将軍を陰ひなたで支えた。
 家康が死後に自ら神となることを望んだのには理由がある。
 それは徳川の世の中を長く存続させるためにそうでなければならなかったからだ。
 皇室の神である天照(アマテラス)に対抗して東照(アズマテラス)を名乗ったことにそれは表れている。東国(あずまのくに)、江戸を照らす神となるという宣言のようなものだ。
 簡単に言えば、徳川家に皇室のシステムを導入するというものだったと考えられる。自らが神となることで、血筋を引く子供が跡を継ぐことを正当化することがもっとも大切だった。
 家康は信長、秀吉の失敗を見て学んだはずだ。単に息子を後継者にするだけでは不十分で安定しないということを。
 自分が神として祀られれば、子供は神の子孫となり、子々孫々それが続くことが合法化する。
 宮家にならって徳川御三家を作り、血筋が途絶えないようにもしたし、大奥というシステムも原型は家康が考え出したものだったはずだ。
 天海が江戸幕府において大きな権限を持っていたのは、家康の死後に宗教戦争とでもいうべき争いに勝ったからだった。
 最初、神道の吉田家主導で、家康は大明神として祀られることになっていた。それに待ったをかけたのが天台宗の天海で、大明神は秀吉がつけて一代で滅んだから縁起が悪いなどと言い、大権現にしたという経緯がある。つまり、家康は神道の大明神ではなく、神仏習合(山王一実神道)の大権現になった。これはかなりな決定打だった。
 明治の神仏分離令によって東照宮は神社と寺院が分けられたけれど、いまだに渾然とした雰囲気が残っているのはそのせいだ。
 江戸時代には全国に500を超える東照宮が建てられたという。現在でも、東照宮という名前ではなくとも関係する神社は100以上あるそうだ。
 日光、久能山以外に有名なところとしては、群馬県太田市の世良田東照宮(1644年)、東京の上野東照宮(1627年)、愛知県の鳳来山東照宮(1651年)、愛知県豊田市の松平東照宮(1619 年)、滋賀県の日吉東照宮(1623年)などがある。

 明治8年(1875年)、名古屋城内に名古屋鎮台(陸軍の部隊)が置かれることになり、三之丸東照宮は隣の天王社(那古野神社)とともに、旧藩校の明倫堂の跡地だった現在地に移された。
 明治5年(1872年)に村社に列し、明治8年(1875年)に県社に昇格した。
 社殿その他をあわせて東照宮は戦前まで国宝だった。
 昭和20年(1945年)の空襲で焼失。
 現在の本殿は、義直の正室・春姫(高原院)の御霊屋を移したものだ。これは1651年に万松寺の境内に建てられたもので、大正3年(1914年)に尾張徳川家の菩提寺・建中寺に移されていた。
 失われる前に作られた1/20スケールの模型を東京大学工学部建築学科が所蔵している。昭和12年(1937年)に行われた調査をもとに制作されたもので、かなり実物に近い精巧なものとされる。
 戦前に撮られた写真を見ると、日光東照宮ほどきらびやかではないものの、柱の朱色や扉の彩色などがけっこう残っていたのが分かる。

 天王社の天王祭、若宮八幡社の若宮祭と並んで東照宮祭は名古屋三大祭とされた。戦前まで名古屋祭といえば東照宮祭のことだった。
 からくり人形を乗せた山車が練り歩き、最盛期には9台の山車が作られたという。それらも空襲で失われ、現在は東区筒井町の湯取車だけが現存している。
 毎年、4月17日の家康の命日にあわせて例祭が行われる。前日の夜には、試楽祭として舞楽が奉納される。
 ちょうどサトザクラが散る頃だ。

 人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし

 家康の遺訓とされるこの言葉は後世の創作という。ただ、家康の一生を思うと、とても家康の教えらしい教えだと思える。
 江戸幕府が続いた264年というのは、長かったのか短かったのか。東照宮の創建から400年。この先も家康は神として祀られ続けていくであろうことを思うと、家康のやり方は間違っていなかったように思うけどどうだろう。

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

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