北区柳原にある深島神社(地図)と同じく、宗像三女神のうちのどの神を誰がいつどこに祀ったのが始まりかということが問題となる。 尾張藩初代藩主の義直が宗像から三女神を勧請して三社に祀ったという話があって、それがややこしくしている要因のひとつとなっている。 1610年の名古屋城築城以前、今川氏親(義元の父)が築城して織田信秀(信長の父)と奪い合った那古野城があった。東西に街道が通っており、ちょっとした集落もあって、いくつかの寺社も建っていた。若宮(若宮八幡社)や天王社(那古野神社)などがそうで、それらは名古屋城築城の際に城内に取り込まれたり、城外に移されたりした。 その時代の古地図を見ると、本丸の北の台地下に宗像社があったことが分かる。名古屋城築城以前なので、当然、義直が勧請して建てたものではない。ここは御深井(おふけ)と呼ばれる場所で、後に北御庭として整備されて宗像社は取り込まれる格好になった。 それ以降、俗に御深井の辨天と呼ばれるようになる。
『愛知縣神社名鑑』はこの神社についてこう書いている。 「『尾張志』に”下御深井の内なる池の中島にありて今弁財天と申す。社家の伝記に田心姫命の祭る。鎮座の初め詳ならざれども、応永五年(1398)3月、宝徳(1450)5月など書ける棟札もつたわりて近世に祀れる社にはあらず、慶長十五年お城造営の時当社の地は北御庭の内で源敬公尊敬し代々たえず修理を加え明徳二年(1391)三月(中略・修理の年数)に至るまで修造する”明治5年、村社に列格し、明治44年12月27日、指定社となる」
主に『尾張志』に書かれていることを引用しているのだけど、創建年は不明ながら室町時代中期の1398年の棟札があることからそれ以前に建てられたものということだ。社家に伝わる話としては田心姫命を祀るという。 義直が作った庭園は、今の名城公園とその周辺を含む広大なもので、南側に池があり、その中の島に弁天が祀られていた。 分からないのは、その弁天が名古屋城築城以前からあった宗像社なのかどうかということだ。宗像社をそちらに移して弁天としたのか、あらたに建てた弁天社だったのか。 この池は名古屋城築城のときに使う土を掘り出したことでできたもので、御深井は台地の下の湿地帯だった。その後湿地は干上がっていくのだけど、いずれにしても名古屋城築城のときにこの辺り一帯が大きく作り変えられたため、それ以前にあった神社は移されたものが多い。 深島社は名古屋城の北東の少し離れた場所に描かれており、当初から場所は移っていないようだ。 宗像三女神の三社セットのもう一社である武嶋社については、『尾張志』は今は瀧嶋社となって巾下浅間町の浅間社の境内摂社になっていると書いている。旧地は上宿五平蔵町で享保十八年(1733年)に浅間社に移したとする。 今は冨士浅間神社の本社横にある小さな末社に宗像社として祀られている。
『名古屋市史 社寺編』(大正4年/1915年)はこう書く。 「境内四百十四坪あり、もと弁才天といひしが藩祖義直が筑前の宗像神社を勤請して、宗形社と号せり。今、俗に辨天、又は御深井の辨天と称す。もと、下御深井の池の島、御深井向島と称す、今北練兵場(現、名城公園)の西なる招魂社の森是なり、徳川時代には此社四十問四方あり、勤詰の年月日詳ならず」 宗形社は義直が筑前の宗像から勧請して建てたもので、下御深井の池の島にあって御深井の辨天と称していたというのだ。 しかし、それでは『尾張志』のいうところの1398年の棟札があるという話と合わない。 江戸時代は尾張徳川家の私社だったというのはそうなのだろうけど、村社に列格したのが明治7年と明治5年という話があって、どちらが正しいのかはっきりしない。 現在地に移された年も明治22年という話と明治26年という話がある。 いろいろな部分で情報に食い違いがあって、正確なところがよく分からない。 共通するのは第二次大戦の空襲で焼けて昭和27年に再建したという点だ。
祭神について『愛知縣神社名鑑』では田心姫命、湍津姫命、市杵島姫命としているのに対して、神社側ではそれに加えて倉稲穂命と徳川義直も祀るとしている。 隣接する和徳稲荷は上御深井にあったものを宝暦二年(1752年)に宗像社(弁才天)に移し、明治22年に現在地に移された。 境内社の須佐之男社は金城村にあった辻天王で、金刀比羅社は御深井にあった14の社を合祀したものだ。
特殊神事として6月の茅輪神事と赤丸神事が行われる他、10月には平家琵琶の奉納演奏が行われているという。江戸時代から続くもので、無形文化財に指定されている。
浄心(じょうしん)という地名は近くにある曹洞宗の浄心観音(浄心寺/地図)から来ているというのだけど、もともと浄心院があって、それが廃寺になり、その跡地に浄心寺が建てられたということのようだ。 あるいは上申新田から来ているという説もあり、浄心の方が後かもしれない。 宗像神社の南の通りの弁天通は、宗像神社が弁天と呼ばれていたことから来ている。通り沿いにはちょっとシュールな牛に乗った白い弁天像がある。
結局のところよく分からないというのが結論なのだけど、現時点で書けるだけのことは書いた。今後、もう少し自分の中で整理がついたら、手直しするか追記するかしたい。
作成日 2018.4.5(最終更新日 2019.9.18)
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