堀川沿いにある小さな津島社なのだけど、入り口の扉は閉ざされ、有刺鉄線で屋根部分を囲っていて、一見すると廃社になった神社のように見える。しかし、そうではないというネット情報がある。 堀川を挟んだ向かいにある洲嵜神社の宮司さんの話によると、津島市の津島神社(web)の例祭である津島天王祭で行われる御葦流し(みよしながし)にまつわる社なのだという。 厄落としのため厄を葦(よし/あし)に託して天王川に流す神事で、それが辿り着いた先は疫病が起きるということで葦を祀るために建てられたのがこの社なのだとか。 けど、ちょっと待てと思う。天王川は江戸時代、佐屋川に合流して伊勢湾に注ぎ込む川ではあったけれど、それはここからずっと西だ。たとえ熱田湊まで流れ着いたとしても、そこから人工の運河である堀川を5キロ以上も遡るなんてことは考えられない。本当に御葦流しの葦を祀る社を建てるとしたら、少なくともここではない。
更によく分からないのは、『愛知縣神社名鑑』の説明だ。 「創建は文化元年(1804)6月、と伝う。牧野の人々天王社と称して崇敬あつく、明治8年、据置公許となる」 創建は江戸時代後期の1804年で天王社を祀ったというのはいいとして、牧野の人々とあるのが解せない。ここは江戸時代でいうと廣井村だ。牧野は名古屋駅西で、ここまで牧野村だったとは考えられない。 違う津島社のことを言ってるのかと思ったのだけど、住所としては名駅南2丁目となっているから、この津島社のことだ。 牧野は廣井の間違いなのか、牧野の人たちがここまで来ていたのか。 『寛文村々覚書』(1670年頃)や『尾張志』(1844年)などの江戸期の書には、牧野村にも廣井村にも天王社は載っていない。
『中村区の歴史』は、「水夫(かこ)の者の神と伝えられている」と書いている。 水夫は水手とも書き、「かこ」の「か」は梶、「こ」は人を表す。 船の漕ぎ手ということで船乗り全般のことではあるのだけど、江戸時代は下級船員のことを指す言葉として使われた。 そういう人たちが祀った神となると、牛頭天王よりも金毘羅や住吉神あたりが妥当のようにも思うのだけど、そういう話は伝わっていない。 秋葉社を合祀しているようだ。
結局、この津島社がどういう神社なのかはよく分からない。開いているのかどうかも判断がつかない。 ただ、洲嵜神社の宮司さんが兼務していて、正月と天王祭に神事を執り行っているのは確かなようだ。 それ以上のことは不明ということで、いったん保留とする。何か分かったら追記したい。
作成日 2017.7.31(最終更新日 2019.5.4)
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