神明社(土野町)、八王子神社(野田)、とともに野田村三社のうちのひとつ。
『尾張志』(1844年)では「サグジノ社」、『寛文村々覚書』(1670年頃)では「斎宮司」、『尾張徇行記』(1822年)では「斎宮司社」または「三狐神」と表記される。
創建年は不明で再建が三社とも寛文七年(1667年)と『尾張徇行記』は書いている。
前々除となっているので、1608年の備前検地以前からあった神社ということになる。
『愛知縣神社名鑑』は、「創建は明かではない。荒子村野田の産土神として崇敬あつく明治6年据置公許となる」とだけある。
三狐、斎宮司、社宮司といった表記の神社は、民間のミシャクジ信仰から来ているものが多い。ただし、これは様々な信仰が入り交じっているため複雑で、絡まった糸を解きほぐすことは不可能なのではないかと思うほどだ。さかのぼれば縄文時代が始まりとも言える。
ここ三狐神社も様々な表記があることから見ても、その歴史は一本道ではなさそうだ。
ひとつ手がかりとなるのが、現在の祭神がトヨウケヒメ(豊受大神命)になっている点だ。伊勢の神宮(web)の外宮で祀られる祭神だ。
トヨウケは一般的にアマテラスの食事を司る御饌都神/御食津神(みけつかみ)とされる。
その御饌都(ミケツ)=三狐(ミケツ)といった流れの神社もあったようで、野田の三狐神社もそういう神社だった可能性は考えられる。
野田もまた、平安時代中期に成立した伊勢の神宮の荘園だった場所だから、伊勢の神宮とのゆかりは深い。
立派な彫り物のある拝殿に対して、本殿は小さな板宮造になっている。
これは流造や神明造を簡素化したもので、屋根が直線でも曲線でもなく、二枚の板を角度を付けて貼り付けたような格好になっている。小さな末社などによく採用されている様式だ。
本殿は外削ぎの男神千木で、鰹木は奇数の五本。これは外宮にならったものだろうか。
拝殿には白馬の絵の額が掛けられており、境内には馬の像が建っている。
このあたりも、この神社に対する多様な信仰心の表れと見るべきだろうか。
いずれにしても、女神を祀る神社のようには感じなかった。なかなかユニークな神社だとは思ったけれど。
作成日 2017.10.30(最終更新日 2019.7.3)
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