野田村三社のうちのひとつ。
『尾張志』では「サグジノ社」、『寛文村々覚書』では「斎宮司」、『尾張徇行記』では「斎宮司社」または「三狐神」と表記されている。
江戸時代を通じて、この三社はずっと野田村にあったようだ。
再建が三社とも寛文七年(1667年)というから、それ以前にあったことは間違いなさそうだ。江戸時代以前までさかのぼれるかどうかは何とも言えない。
『愛知縣神社名鑑』は、「創建は明かではない。荒子村野田の産土神として崇敬あつく明治6年据置公許となる」とだけある。
三狐、斎宮司、社宮司といった表記の神社は、民間のミシャクジ信仰から来ているものが多い。ただし、これは様々な信仰が入り交じっているため複雑で、絡まった糸を解きほぐすことは不可能なのではないかと思うほどだ。
ここ三狐神社も様々な表記があることから見ても、その歴史は一本道ではなさそうだ。
ひとつ手がかりとなるのが、現在の祭神がトヨウケヒメ(豊受大神命)になっている点だ。伊勢の神宮の外宮で祀られる祭神だ。
外宮の歴史も複雑すぎてまったく理解できる気がしないのだけど、建前上はアマテラスの食事係ということになっている。女神とされる。
食事を司る神を御饌都神/御食津神(みけつかみ)という。
御饌都(ミケツ)=三狐(サンコ/ミケツ)という表記が当てられることからして、野田の三狐神社もその流れを汲むものだろうか。
野田もまた、平安時代後期に成立した伊勢の神宮の荘園があった場所だったから、伊勢の神宮とのゆかりがある。
三狐はまた「サグジ」とも読む。
これは農家が祀る田畑の神とされた。
別名を保食神(ウケモチ)、倉稲魂神(ウカノミタマ)ともいう。
ウカノミタマやウケモチといえば、稲荷社で祀られる神だ。ここで三狐の狐と稲荷が結びつく。
キツネは稲荷神の使いとされているから、稲荷社では狛犬の代わりにキツネが社を守っている。
キツネそのものに対する信仰ではないのだけど、少しごっちゃになっている部分もある。
稲荷神は神仏習合する中で、荼枳尼天(ダキニ)とも結びついた。
もともとは夜叉の一種のダーキニーだったのが仏教に取り入れられて、中国から日本に渡ってきて天部の仏となった。
白狐に乗る天女の姿で描かれることが多く、そこから稲荷神と同一視されるようになる。神社にも寺にも稲荷社があるのはそのためだ。
神宮の外宮で祀られる神と農家の田畑の守り神が入り交じっていく中で三狐神は当初のイメージからはだいぶ違うものになってしまったように思う。正直、よく分からない。
立派な彫り物のある拝殿に対して、本殿は小さな板宮造になっている。
これは流造や神明造を簡素化したもので、屋根が直線でも曲線でもなく、二枚の板を角度を付けて貼り付けたような格好になっている。小さな末社などによく採用されている様式だ。
本殿は外削ぎの男神千木で、鰹木は五本。これは外宮にならったものだろうか。
拝殿には白馬の絵の額が掛けられており、境内には馬の像が建っている。
このあたりも、この神社に対する多様な信仰心の表れと見るべきだろうか。
いずれにしても、女神を祀る神社のようには感じなかった。なかなかユニークな神社だとは思ったけれど。
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