笠寺に古くからあった7つの秋葉神社のうちのひとつ。 市場(いちば)、大門(だいもん)、笠迫(かさま)、中切(なかぎり)、新町(しんまち)、西之門(にしのもん)、松本の町内にそれぞれひとつずつあり、ここ松城町の秋葉神社は松本に当たる(中切は現存せず)。 松城町3丁目の町名は、かつてこのあたりに戸部城があり、別名を松本城といったことから来ているとされる。 神社の南の細い道がかつての旧街道だったのだけど、現在は住宅が建って途中で行き止まりになっている。少し西に松本地蔵と呼ばれる道標を兼ねた石柱に彫られた仏像があり、そこには「右あつた 左新田道」 「右しんでん 左知多郡」 「明治三十二年」と彫られている。 すぐ東を東海道が通り、西側を通っていた塩付街道を南へ行くと星﨑を通って知多方面へ行けた。 このあたりは熱田と知多半島などを結ぶ街道の交差点だった。 今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見ると、東海道から少し西に入ったところに松城町にわりと大きな集落があったことが分かる。
神社の創建年は不明ながら、こういった交通の要衝にあったということは古くから祀られていたと考えていいかもしれない。遅くとも江戸時代には建っていただろう。 本社奥の倉庫には、祭礼で使われる傘鉾(かさほこ)や猩猩(しょうじょう)などが保管されているとのことだ。 神社の西に建つ公民館が境内に食い込んできており圧迫している。
松本城、笠寺城とも呼ばれた戸部城の城主は戸部新左衛門政直だったとされる。なかなかの剛の者だったようだ。 戸部城は秋葉神社の北西、戸部町3丁目あたりにあったと考えられている。 東西約30メートル、南北約180メートルというから、細長い城だったようだ。 南側は10メートル以上ある断崖で、すぐ下は海だったともいう。 今の笠寺からはちょっと想像がつかないのだけど、かつての笠寺台地の西は年魚市潟と呼ばれる干潟の海だった。 台地も区画整理などでかなり削られて原型をとどめていないものの、東の名鉄本笠寺駅(地図)の標高が海抜15メートルに対して750メートルほど離れたJR笠寺駅(地図)は海抜2メートルなので、10メートル以上の断崖だったというのもあり得る話だ。
戸部政直は最初織田家に従っており、織田が今川との戦いを始めると今川にも通じるようになった。信秀が死んで信長の代になると織田家を見限って今川についた。 近くにあった寺部城の山口氏とは折り合いが悪く、争いも起こしていた。山口重俊が戸田城を攻めてきたときには返り討ちにしたりしている。そのとき山口重俊は命を落とした。 今川についた戸田政直は今川義元の妹をめとった。 しかし、裏切りを許さなかった信長に計略によってはめられ、今川義元によって討たれてしまう。 ただしその話は『甫庵太閤記』(小瀬甫庵 1625年)などの軍記物に書かれたもので、太田牛一の『信長公記』にはないため、作り話もしくは同じように織田から今川に寝返った山口教継・教吉親子のことという説もある。 その計略というのは、政直の筆跡を真似て政直が信長と通じているという内容の手紙書かせ、商人に化けさせた森可成に駿府城下へ持ち込ませて今川義元の手に渡るようにしたというものだ。 それを信じた義元は政直を呼び出し、三州吉田(愛知県豊橋市)で成敗したという。1557年または1558年のこととされる。桶狭間の戦いの2年ほど前だ。 山口親子の話もそうだけど、今川義元は計略に簡単に引っかかってしまう間抜けな殿様とされがちだけど、実際はそんなに愚かな人間ではなかったはずで、やはり敗者になると反論できない悲しさみたいなものがある。 山口親子の桜中村城や戸部政直の戸部城があれば、桶狭間の戦いは違う展開になっていたかもしれない。それでも信長は勝っただろうか。 政直亡き後、戸部城は廃城になったとされる。 昭和4年の耕地整理で土地が削られて痕跡は残っていない。 以前、戸部3丁目にあった石碑は現在富部神社に移されている。 富部神社に隣接する長楽寺には戸部政直の木像が伝わっている。
笠寺あたりは、笠寺観音、旧街道、戦国時代の城、江戸時代の東海道と、さまざまな時代の歴史が折り重なっているところで、興味深い土地であり、理解するのが難しくもある。 この小さな秋葉神社も意外な歴史が秘められているのかもしれない。
作成日 2018.3.8(最終更新日 2019.8.24)
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