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神明社(福前)


名古屋最西端神社と思いきや



福前神明社

読み方しんめい-しゃ(ふくまえ)
所在地名古屋市港区福前1丁目319 地図
創建年不明
旧社格・等級等村社・十五等級
祭神天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)
アクセス近鉄名古屋線「近鉄蟹江駅」から徒歩約40分
河合小橋バス停留所」から徒歩約8分
駐車場 なし
その他例祭 10月8日
オススメ度

 名古屋市のほとんど西の果てにある神社。ここまで来るとずいぶん遠くまで来たという感じがする。名古屋駅とは直線距離で10キロ以上離れている。
 すぐ西は蟹江川と日光川の合流地点で、もう海に近い。蟹江川を挟んで西は愛知県海部郡蟹江町だ。
 福前(ふくまえ)の地名は、この地がかつて福田前新田と呼ばれていたことから来ている。
 ただ、町名としては2015年(平成27年)からと新しく、その前は南陽町大字福田前新田字いの割といっていた。福屋1丁目は字いの割と字源蔵池の各一部から成り、福前2丁目は字ろの割と字はの割の各一部より成立した。



 福田前新田は、1749年(寛延2年)に上萱津村(あま市)の林善蔵が開発したもので、善蔵新田とも呼ばれていた。
 西福田新田の南側を拡張する格好で干拓したものだ。



『尾張侚行記』(1822年)はこう書いている。
「此新田ハ上萱津村人善蔵トイエル者開墾ス、因テ善蔵新田トモ唱エリ、同人作 小屋アリテ其外ニ農屋ナシ、是ハ蟹江舟入ヨリ第一承佃シ、又西福田新田ヨリモ 承佃ストナリ」
 林善蔵というのが何者かよく分からないのだけど、ここを開発して自分で住んで農作業をしていたようだ。他に一軒もないというから林善蔵一家でやっていたということだろう。
 しかし、場所柄たびたび水害に遭って農地経営が行き詰まり、名古屋の伊勢町岡田家に売り渡したという。
 成瀬隼人正の請控だったともいうから、実質的には成瀬隼人正が管理をしていたのだろう。



『尾張徇行記』、『尾張志』(1844年)ともに福田前新田の神社に関する記載はない。



『愛知縣神社名鑑』はこの神社についてこう書いている。
「創建は明かではない。いの割の鎮守の神として祀る。明治5年7月、村社に列格する。昭和34年9月26日未曾有の台風により社殿流失し、昭和49年10月15日造営遷座祭斎行した」
 創建年や創建のいきさつは伝わっていないようだ。林善蔵が祀ったというよりは、後に集落ができたときに村人達が祀ったのが始まりではないかと思う。



 今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見ると、福田前新田に家は7、8軒ほどしかない。北寄りの田んぼの中と北の堤防沿いだ。
 現在神社がある場所に鳥居マークはない。
 1920年(大正9年)の地図にもなく、1932年(昭和7年)の地図から鳥居マークが現れる。
 明治5年に村社に列格しているということは江戸時代にはあったということだ。最初から現在地にあったのか、別の場所にあったものを移したのか、そのあたりの事情はよく分からない。福田前新田の神社はここだけだから、新田の守り神だったに違いない。
 戦中から戦後にかけても、ほとんど変わりはない。
 1960年代になると道路ができて、道沿いに少しずつ民家が増えていった。
 1980年代から1990年代にかけてゆっくり発展していったようだ。
 現在は西側に家が多く、東側は田んぼが広がっている。



 神社には宝物として神楽太鼓と獅子頭が伝わっている。秋祭りのときは披露されるのだろう。
 名古屋で一番新しい土地が古くからの風景や伝統を一番保っているというのは皮肉か必然か。新しい土地だからこそ伝統を守っていこうという思いが強かったのかもしれない。時代に取り残されたというだけではないだろう。
 港区の田んぼ風景は名古屋の人間が忘れかけているかつての尾張の風景だ。江戸時代の名古屋は城下の町並み以外は濃尾平野に広がる農村地帯だった。
 これらの風景はすべて400年近く前までは海の底だった。人のやることはとんでもないことだけど、儚くもある。そう遠くない将来、ふたたび海に帰ることがあるかもしれない。
 この夏も青々と育った田んぼの風景が広がった。それは決して当たり前の風景ではない。




作成日 2018.8.28(最終更新日 2019.8.3)


ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

小さいけど福田前新田の村社だった神明社

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