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白山神社(新栄)


街中に残された古墳の上に建つ古い白山社



新栄白山神社

読み方はくさん-じんじゃ(しんさかえ)
所在地名古屋市中区新栄3丁目27-24 地図
創建年伝・712年(奈良時代初期)
旧社格・等級等郷社・八等級
祭神菊理姫命(くくりひめのみこと)
伊弉諾命(いざなぎのみこと)
伊弉冊命(いざなみのみこと)
アクセス地下鉄東山線「新栄町駅」から徒歩約14分
JR中央本線「千種駅」から徒歩約20分
駐車場 あり
その他例祭 7月9日
オススメ度

『愛知縣神社名鑑』は、「創建は古く和銅五年(712年)加賀国白山に登拝の衆徒が神璽を拝戴し、この地の山稜に社殿を設け奉斎す」と書いている。
 神璽(しんじ)は三種の神器のことをいうのだけど、この場合は御神璽(おみたま)を分霊したとか、御神札をいただいてきたといった意味だろう。
 けど、712年というのは本当だろうか。
 白山を開いたのは、越前の修験僧・泰澄(たいちょう)で、それは717年(養老元年)とされている。その後、白山の上に奥宮が創建されたのは718年だ。
 一方、白山を御神体として山の麓(ふもと)に建つ白山比咩神社(しらやまひめじんじゃ/web)も社殿の創建は716年としている。
 白山に対する崇敬や信仰といったものはもっと古くからあっただろうけど、712年に名もなき住人が集団で白山に登って白山の神を分霊してもらったということがあり得るかどうか。
 ただ、717年に白山が開かれたというのは神社関係者も知っているはずで、その上でこの白山神社の創建を712年としているということは何か根拠があるということだろうか。



『尾張志』(1844年)では違うことが書かれている。
「東寺町にあり勧請の年月しられす功徳山圓教寺社務を掌る當寺は古く白山玄海寺といひしを貞享二年今の寺号に改む」
 東寺町は、名古屋城(web)築城の際に家康が命じて東と南に寺が集まる区画を作ったうちのひとつで、新栄のあたりは東寺町に当たる。圓教寺(地図)は今でも残っていて、白山神社とは道を隔てた北側にある。
 圓教寺はもともと白山玄海寺という名前で、延享2年(1745年)にあらためたという。
 更にこう書く。
「此やしろは清須より此地にうつせる也」
 白山玄海寺というからにはもともと仏教系の白山神を祀っていたのだろう。そこに清須から白山宮を移したといっている。



『尾張名所図会』(1844年)にはこうある。
「白山権現社 駿河町通の東、小山の上にあり。此辺の生出神(うぶすながみ)なるゆえ、本社拝殿美を尽くせり」
 駿河町通というのはのちの飯田街道のことで、ここから西北の高岳の南に駿河町街園(地図)という小さな公園に名残をとどめている。



『愛知縣神社名鑑』は、「慶長十五年(1610)藩祖徳川義直名古屋城築城に際し完成を祈願のため社参あり翌十六年無事完工するや報賽に従三位白山妙理大権現の称号を贈る。同年西春日井郡清洲町朝日郷に鎮座の白山宮を当社に合祀する」と書く。
 しかしこれは信じられない。義直は1601年生まれなので名古屋城築城が始まった1610年は9歳でしかない。名古屋城築城を命じたのは徳川家康で、この頃の義直は急死した兄の松平忠吉に代わって清須城主となっていた。ただ、これは名目上のもので、義直は母とともに家康がいる駿府城で過ごしていた。1610年に名古屋藩主とはなっているものの、これも名目上のもので、実際に名古屋入りするのは家康が死去した1616年のことだ。
 こういった流れからして、1610年に義直が白山玄海寺を訪れて名古屋城築城の祈願をして、翌1611年に従三位白山妙理大権現の称号を与えたなどということはあり得ないのではないか。あるとすれば、お付きだった家老の平岩親吉(ひらいわちかよし)あたりが義直の名で行ったということだろうか。それなら可能性はある。
 1611年に清須の朝日郷にあった白山宮を合祀したというのは本当なのだろう。同じ年、同じ朝日郷にあった神明宮(朝日神社)も名古屋城下に移されている。
 しかし、名古屋城からかなり離れた寺町にあった白山玄海寺に白山宮を移したのは何故だったのか。ここは当時、名古屋城下の外れも外れで、寺以外は森林や野原が広がるだけの土地だったという。朝日郷にあった頃の白山宮がどういう社だったのかは分からないのだけど、あえてその神社を選んだのには何か理由があったのだろう。
 現在の祭神がイザナギ・イザナミとククリヒメになっているということは、平泉寺系の白山権現と白山比咩神社があわさっていると考えていいだろうか。だとすれば、朝日郷にあった白山宮は白山比咩神社からの勧請だったかもしれない。
『尾張志』はこの場所を選んだのは、清須の旧地に似ていたからといっている。
「山稜の形勢にて古墳地なる事あきらけし陵域に埴輪なと近き頃まて存在したれは混ふへくもあらぬ古墳なり」
 江戸時代もここが古墳だという認識だったようで、古墳の上をわざわざ選んで祀って、それが清須の旧地に似ているというから清須の朝日郷でも古墳の上に祀っていたのではないだろうか。清須の旧地が具体的にどこだったのかは把握できていない。



 社殿は白山神社古墳と名付けられた前方後円墳の上に乗っている。
 平成19年(2007年)に名古屋市教育委員会が行った調査で周濠の存在が明らかになった。全長は約80メートル、周濠を含めると120メートルほどになるというから、尾張地方では大型の部類に入る。
 出土した埴輪の特徴などから築造は5世紀中頃と考えられている。
 ここは熱田台地の北寄りの東側になる。熱田台地と大曽根台の間に深く海が入り込んだ入り江に近い場所だ。
 南1.4キロほどのところに八幡山古墳(地図)がある。5世紀中頃の築造で、直径82メートルの円墳だ。これは東海地方最大級の円墳とされている。
 西南2キロほどのところには那古野山古墳(地図)や冨士浅間神社古墳、日出神社古墳があり、その少し西に100メートル級の大須二子山古墳(地図)があった(消滅)。
 遺跡でいうと、大須古墳群の少し北、現在の白川公園(地図)とその西一帯に白川公園遺跡、旧紫川遺跡、竪三蔵通遺跡などが見つかっており、旧石器時代から縄文時代までさかのぼる。
 位置関係からすると、白山神社古墳は八幡山古墳との関係が考えられる。大須古墳群との関係性は何とも言えない。
 千種の古井や昭和区御器所あたりに物部郷があったことからすると、物部一族のものという可能性もあるだろうか。5世紀半ばまでに尾張氏が尾張国を統一していたとすれば、尾張氏の首長のものかもしれない。



 それにしても、古墳の上に白山社を祀る例が多いのは何故だろう。古墳を山に見立てたということなのか、死者と白山の神との組み合わせに何か特別なものがあると考えていたのか。
 白山神社ではククリヒメ(菊理姫命)を主祭神として、イザナギ(伊弉諾命)、イザナミ(伊弉冊命)を祀るところが多い。加賀国一宮で白山社総本社の白山比咩神社(しらやまひめじんじゃ)では、主祭神の白山比咩大神をククリヒメのこととしている。
 ククリヒメは『古事記』や『日本書紀』の本文には登場せず、『日本書紀』の一書(あるふみ/異伝)に一度だけ出てくる。
 神産みのとき、火の神カグツチを産んで火傷を負ったイザナミは命を落とし、死んだイザナミに会うためイザナギは黄泉の国を訪れる。しかし、会ってみるとあまりにも変わり果てたイザナミの姿におびえ、イザナギは逃げ出してしまう。追いかけるイザナミ。黄泉比良坂で追いつかれ、ふたりは口論になる。
 そこに泉守道者が現れて、一緒に帰ることはできないというイザナミの言葉をイザナギに伝え、その場に現れたククリヒメがイザナギに何かを言うと、イザナギはそれを褒め、帰っていった。
 ククリヒメが何を言ったかは書かれておらず、ククリヒメがどういう神かの説明もない。
 そんなククリヒメがいつどういう経緯で白山の神とされることになったのかは、分かっていない。
 イザナギとイザナミの仲を取りなしたということで、生者と死者との間を取り持つ神と考えられるようになったことが白山の神となった理由だろうか。
 死者が眠る古墳の上にククリヒメを祀る白山社を建てたのも、そういう理由だったのかもしれない。だとすれば、ククリヒメは神の意志を人に伝え、人の願いを神に伝える巫女的な存在と考えられていたのだろう。
 白山社の創建が700年代という早い時期だったとすれば、古墳に眠る人物と創建した人間は親しい関係にあった可能性もある。400年代半ばと700年代前半、その間に流れた250年という年月は、当時の人たちにとってどれくらいの長さだったのだろう。



『尾張名所図会』に「例祭六月九日。神楽(かぐら)ありて、町々の献燈山上まですき間なく、昼をあざむき、殊に群衆せり」とあり、往事の隆盛を思わせる。
 義直が従三位白山妙理大権現の称号を与えたということから尾張藩代々の藩主はこの神社の例祭のときに代参を送って金子を与えたというから、祭りも盛大だったのだろう。
 社蔵する一番古い棟札は永和三年というから室町時代の1377年のものだ。その後、1457、1526、1641、1645、1657、1697、1737、1754、1770、1785、1801、1818、1838、1855、1875、1891年の棟札があるという。
 昭和20年の空襲で社殿は焼けたものの、御神体は無事だったそうだ。神像なのか別の何かなのかは分からない。
 特殊神事として7月には湯立神事、8月には輪くぐりをしている。



 白山神社がある新栄3丁目は、かつて菊里町という地名だった。これは白山社に祀られたククリヒメ(菊理姫)が由来となっている。
 明治29年(1896年)に創立した名古屋高等女学校はこの地にあり、その後、男女共学となり菊里高校になった。星ヶ丘に移ったあとも菊里高校として続いている。
 その他、白山町や宮前町、白山中学なども、この白山神社から名付けられた。



 古墳の上に神社を建てることで古墳が守られると昔の人が考えたかどうかは分からない。ただ、結果的にそうなっていることを思うと、これも昔の人の智恵というものかもしれない。
 逆に言えば、古墳が神社を守ったとも言える。
 古墳と神社の共存関係はこれからも続いていくことだろう。




作成日 2017.4.10(最終更新日 2019.3.3)


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