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御器所八幡宮

御器所八幡宮はただの八幡ではない

御器所八幡宮の鳥居と社殿

読み方 ごきそ-はちまん-ぐう
所在地 名古屋市昭和区御器所4丁目4-25 地図
創建年 伝・833-850年頃(平安時代前期)
旧社格・等級等 郷社・八等級
祭神 品陀和気命(ほむたわけのみこと)
天児屋根命(あめのこやねのみこと)
弥都波能売命(みつはのめのみこと)
菊理媛命(くくりひめのみこと)
五男三女神(ごなんさんにょしん)
アクセス 地下鉄鶴舞線「荒畑駅」から徒歩約12分
駐車場 あり
webサイト 公式サイト
電話番号 052-881-9512
その他 例祭 10月14日・15日 授与所 各種祈祷
オススメ度 **

 平安時代前期の833-850年頃、第54代仁明天皇(にんみょうてんのう)の勅願所(ちょくがんしょ)として熱田社の鬼門を守護するために創建されたと社伝はいう。
 御器所(ごきそ)の地名は古く、鎌倉時代に書かれた歴史書『吾妻鏡』にも記述があり、この地で熱田社の神事のときに使う土器を焼いていたことから名付けられたとされる。
 室町時代中期の1441年、佐久間家勝らによって社殿が修繕されたという棟札を所蔵するという。そこには八所大明神(はっしょだいみょうじん)とあることから、中世はそう称していたことが分かる。
 鎌倉時代以降、この地は佐久間氏の領地だった。承久の乱(1221年)のとき、幕府側について戦功を上げた家盛が恩賞として御器所の地を与えられたことに始まる。
 家盛は鎌倉幕府の御家人となり、後鳥羽上皇側について戦った父の朝盛(とものり)とともに許され、一族でこの地にやってきて定住することになった。
 家勝が八所大明神を修繕した1441年は、御器所西城を築いた年でもある。御器所八幡宮から見て北西約300メートル、現在尾陽神社がある場所にその城はあったとされる。
 佐久間氏は桓武平家の流れを汲む家で、戦国時代には織田家の家臣となり、信長の重臣だった信盛(のぶもり)などを輩出している。
 このような流れを見ると、御器所八幡宮の原型は遅くとも鎌倉時代にはできていたと考えてよさそうだ。
 醫王山神宮寺は、嵯峨天皇の遺志を継いで息子の仁明天皇が850年に創建したとされている。熱田神宮の別当補佐だった高野山の僧・成惠僧都が熱田社の鬼門除けとして建て、1304年に落雷で焼失したのち、御器所に建て直した。
 八所大明神と神宮寺を合体させたのも、1441年で、家勝による(明治の神仏分離令で分離)。
 1584年の小牧長久手の戦いの際、徳川家康が島田城主だった大島家の案内で参拝に訪れ、戦の後に大島家に修造を命じたという話も伝わっている。
 島田城(天白区島田)は牧家が城主と務めたとされるのだけど、大島家はその一族だろうか。
『尾張徇行記』(1822年)によると、慶長5年(1600年)の棟札には大島雲八源光義の名が書かれているとのことだ。

『愛知縣神社名鑑』はこの神社についてこう書いている。
「創建は明かではないが、『尾張志』に古くは八所大明神と称す。嘉吉元辛酉年(1441)十一月十六日とある棟札に奉造立御器所八所大明神を領主佐久間美作守家勝が修造とあり、慶長五年(1600)十一月のものにも八所大明神と記るす。万治二年(1659)十一月の棟札から八幡宮とあり、永禄七年(1564)寛永五年(1628)それぞれ修造すと、佐久間一族の尊崇あつく、明治5年、八幡神社と改め村社に列格し明治42年9月1日、供進指定社となる。昭和13年9月1日、郷社に昇格する。昭和55年4月8日、御器所八幡宮と改称した。(神徳)古老の口伝、往古熱田の神領にて鬼門除、鎮護の神と崇められた」

 室町時代中期の1441年の棟札には八所大明神とあり、江戸時代直前の1600年の棟札も八所大明神で、江戸時代前期の1659年の棟札には八幡宮とあるというから、江戸時代に入って八幡宮と称するようになったということのようだ。
『尾張志』(1844年)は、「社説に祭神は誉田天皇にて内陣に天照大御神高蔵ノ神八劔ノ神熊野ノ神比叡ノ山王ノ神五座を配享とへり」と書いている。
 これでいうと、祭神は六柱なので八所大明神は八柱の神の意味ではないということだ。
 では、八所大明神とはどういう神なのかということなのだけど、これが諸説あってはっきりしない。八柱の神を祀ることが由来というところもあるようだけど、大明神というから神仏習合における神と考えていいだろうか。あるいは、本来の神が仏と習合して八所大明神と呼ばれるようになったのか。
 在野の民俗学者だった吉野裕子は、天から降ってきた八乙女のことではないかとする。それは輔星(ほせい)を含めた北斗七星の8人のことという。
 御器所のこのあたりは非常に古い歴史を持つ土地で、熱田社(熱田神宮)との関係も深かった。
 高蔵の神や八劔の神は熱田とゆかりの神だし、御器所村にあった八王子を祀る縣社や氷上社などは尾張氏との関係が考えられる。
 境内摂社には白山社、富士社、浅間社、天神社、稲荷社があり、社人は安藤興三太夫と『尾張志』にある。
『尾張名所図会』(1844年)には「すこぶる大社なり」とあるから、今よりも境内は広かったのだろう。
 祭神と境内社については長い歳月の間に失われたものや増えたもの、変わってしまったものがあり、江戸時代とはだいぶ違っている。
 江戸時代は誉田天皇(應神天皇)、天照大神、高蔵神、八劔神、熊野神、比叡山神(日吉山王神)だったのが、現在の祭神は品陀和気命、天児屋根命、弥都波能売命、菊理媛命、五男三女神となっている。
 高蔵神も八劔神も熊野神も山王神もいなくなった。
 天児屋根命は春日社だろうし、菊理媛命は白山社だけど、弥都波能売命(ミツハノメ)がどこから来ているのかは分からない。五男三女神は八所から当てはめたものだろうか。
 境内社として残っているものは、天満宮、稚児宮、五社宮、総社宮、白龍社などとなっている。

 創建が平安時代前期の833-850年頃で仁明天皇の勅願所として建てられたというのが本当だとすると、そもそも最初に祀った神は何だったのか。初めから八所明神だったのだろうか。そのあたりを推測するのは難しい。
 津田正生は『尾張国神社考』(尾張神名帳集説訂考)の中で、『延喜式』神名帳(927年)の愛智郡物部神社は御器所村の八幡で、物部郷は御器所村の旧名だと書いている。
『尾張国地名考』では、愛智郡高牟神社が御器所の八幡宮かもしれないとも書く。
 津田正生にいわせると、旧山田郡と旧愛智郡との郡境は名古屋城下の南の駿河街道(今の153号線)あたりで、古井村の八幡(高牟神社)や石神(物部神社)がある場所は旧山田郡だから、『延喜式』神名帳の愛智郡高牟神社や愛智郡物部神社ではあり得ないとする。
 ちょっと突拍子もないように思える説だけど、郡境については津田説はあり得るかもしれない。平安時代末期に那古野荘は東大寺の荘園となり、戦国時代に山田郡は分割されて春日井郡と愛智郡に組み込まれたこともあって、旧山田郡の郡域ははっきりしない。
 いずれにしても、御器所八幡宮がただの八幡宮ではないことは確かで、式内の物部神社はこの神社だとする津田正生の説は私としても魅力を感じる。ただの無冠の神社にしておくには惜しい。

 どういういきさつで誰が建てたのか、八所明神とはどんな神なのかなど、いくつかの謎が残った。
 キーワードとなっているのが「八」と「雲」だ。八所明神、八劔、八幡、八王子。神社の隣には村雲町があり、熊野は本来雲野だったともいい、八所明神を修造したのが大島雲八。八雲といえばスサノオを連想する。こじつけかもしれないけど、何かありそうな感じもする。
 それはともかくとして、個人的にこの神社は好きだ。お気に入り神社のひとつとして人に勧めたい。
 実際に参拝してもらえると、この神社がただの八幡ではないことが分かってもらえるんじゃないかと思う。

 

作成日 2017.2.14(最終更新日 2019.3.14)

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

御器所八幡宮は八幡らしい八幡社と感じた
御器所八幡宮再訪であらためていい神社だと思う

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