いろいろ調べても手がかりが少なくてよく分からない神社だ。 住所は八つ松(やつまつ)で、小高い丘の上に八幡社と蔵王堂が並んでいる。 もともとは蔵王堂が集落の氏神だったという話があるのだけど、八幡社については情報がほとんどない。蔵王堂はかつて別の場所にあったというから、もともとここに八幡社があって、その敷地内に蔵王堂を移したとも考えられる。 古くはこの神社の横を鎌倉街道が通っていたと考えられている。鎌倉街道沿いに八幡社があることは自然なことで、ひょっとするとこの八幡社は鎌倉時代までさかのぼる可能性がある。 分からないのは、江戸時代にここが何村だったかということだ。 大きく言えば鳴海村の村内なのだろうけど、相原郷(相原村)と平手新田の集落が独立していて、地図上で見ると平手新田に見えるも、『尾張志』、『尾張徇行記』、『寛文村々覚書』など江戸期の書の平手新田の項を見ても八幡社は出てこない。相原村と鳴海村の項にもこの八幡社らしき神社は見つけられない。
地名から手がかりを探ると、八つ松というのは八本の松があったことから来ているという説がある。 この八幡社は八ツ尾八幡社とも呼ばれているようなのだけど(グーグルマップなどでもそう表記される)、これは八つ松(かつての字名が八ツ松だった)と尾崎山をあわせた呼び名だという。 尾崎山という名前の山があるのかどうかよく分からない。町名としての尾崎山は鎌倉台を挟んだ西側にある。 もともとは尾根が目立つ場所ということで尾崎ヶ根山と呼ばれていたものが尾崎山になったとされる。 八つ松の東の大清水は、大きな清水が湧く場所があったことから呼ばれるようになったという。 いずれにしてもこのあたり一帯は丘陵地であり、旧鎌倉街道が通っていたことにちなむ地名が多い。 鎌倉街道沿いには松並木があり、江戸時代までは義経が甲(かぶと)を懸けたという伝承を持つ義経甲懸松があったと伝わる。
蔵王堂についてはちょっと面白い話がある。八つ松の北を流れる扇川の上流から黒ずんだ仏像が流れてきて拾い上げてみると蔵王権現だったので、それを祀るために建てたのが蔵王堂だというものだ。 蔵王権現といえば、奈良県の吉野山で役小角 (えんのおづぬ)が開いた金峯山寺が総本山で、修験の信仰にもとづく神だ。 旅人を守る守護神ともされたということで、鎌倉街道沿いに祀ったということは充分に考えられる。 蔵王堂の旧地は山の麓だったというから、現在地よりも西または北だっただろうか。実際の創建時期についてはよく分からないのだけど、鎌倉街道に人の往来があった時代となると、江戸時代よりも前ということになりそうだ。
江戸時代の八幡社と蔵王堂の関係性や位置がよく分からない。 もともと同じ場所にあったのであれば、明治の神仏分離令で分けられただろうから、今のように隣接するようになったのは近年のことではないだろうか。たとえば戦後とか。 今昔マップで明治以降の変遷を見てみても、古い時代の地図に鳥居マークや卍マークは描かれず、神社や蔵王堂に関する手がかりは得られない。現在地に鳥居マークが初めて現れるのは1976-1980年の地図からだ。 このあたりが開発されたのは遅く、1980年代以降にようやく完全な住宅地になった。それ以前は家がまばらにある程度だったことが地図から読み取れる。
現地で得られた情報としては、鳥居裏に昭和三十九年年十二月の銘が入っていることや、八幡社本社の左右に小さな社があることくらいで、他には見つけられなかった。蔵王堂の中をのぞいても蔵王権現像は見えない。 昭和39年は鳥居を奉納した年で、遷座とは関係ないと思うのだけどどうだろう。 社殿が西北を向いているのは何か意味があるのだろうか。敷地からして南向きに建てることは十分可能だった。北西の方向を直線上に辿っていくと琵琶湖とか丹後とかで、吉野方面ではない。登り階段に対して正面を向けただけかもしれない。
こうやってまとめながら書いても結局よく分からないという結論は変わらない。何か分かれば追記したいけど、望み薄のような気がする。
作成日 2018.11.19(最終更新日 2019.4.10)
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