686年に成海神社(web)が創建されたとき、最初に建てられたのがこの場所だったとされる。当時すぐ南は年魚市潟(あゆちがた)と呼ばれる干潟の海で、神社は海辺の高台に建っていただろう。 室町時代中期の1396年(応永3年)、三代将軍・足利義満配下の安原備中守宗範が鳴海の領主としてこの地にやってきて鳴海城(根古屋城とも)を築城し、その際に成海神社を現在の乙子山に移して造営し、旧地にはその後、天神社が建てられて成海神社例祭のときの御旅所となり、現在に到る。 これが一般的に語られる成海神社と天神社の縁起だ。しかし、いくつか疑問を抱く。 ひとつには、どうして成海神社を移す必要があったのかということだ。 城を作るのに邪魔だったからだろうと思いがちだけど、成海神社の旧地は二の丸に当たる場所で、本丸があったのは道路を挟んで西の城跡公園(地図)になっているあたりだったとされる。成海神社旧地の狭さからしてもささやかな社殿を持つ程度の神社だっただろうから、二の丸に神社くらいあってもそれほど邪魔になるとは思えない。むしろ守護神として城に取り込んでしまう方が理にかなっていたのではないか。 考えられるとすれば、城の北東の鬼門の位置に置いて守護するという発想だったかもしれない。 1300年代後半といえば戦国時代とは違って日常的に戦争が起こっている状況ではない。応仁の乱が始まるのは1467年だからまだだいぶ先のことだ。 『尾張志』(1844年)によると鳴海城は、東西75間(136メートル)、南北34間(62メートル)ほどで、南が崖になっていて、三方は堀があり、曲輪(くるわ)も残っているとある。現在でいうと、城跡公園と天神社がある高台をあわせたくらいの範囲が城郭だったことになる。 成海神社は由緒のある神社だと安原備中守宗範も知っていただろうから、焼けたら大変ということで離れた場所に移したということだったのだろうか。
それにしても安原備中守宗範という人はどうしてそこまでできたのだろうとも思う。鳴海城を築城し、成海神社を移して造営し、諏訪山には瑞松寺(後の瑞泉寺)まで建てている。短期間にこれだけの造営工事ができるということはかなりの財力と動員力があったことを意味している。個人で資金を出したとは思えないから、やはり将軍義満の意向ということもあっただろうか。 鳴海城は安原備中守宗範が死去すると廃城になったとされる。それもまた解せない話だ。どうしてあとを継ぐ者がいなかったのか。鳴海城はそれから100年以上捨て置かれることになる。
この廃城に目を付けたのが信長の父の信秀だった。このあたりが織田家と今川家の領地争いの最前線となったことから鳴海城を修復して家臣の山口佐馬助教継・教吉父子に守らせた。 しかし、信秀が死去すると信長を見限った山口佐馬助教継は今川方に走り、鳴海城は今川方の岡部五郎兵衛が守ることになった。そして、1560年、桶狭間の戦いを迎えることになる。 ちなみに、山口佐馬助教継は大高城と沓掛城を調略によって奪ったまではよかったのだけど、その後、信長の調略によって父子ともに今川に殺されてしまった。 今川義元が討たれて今川方の敗北が決まった後も岡部五郎兵衛は鳴海城に籠もり、義元の首をもらいうけるという条件と引き替えに鳴海城を明け渡し、駿府に帰っていった。 桶狭間の戦いの後は佐久間右衛門尉信盛とその息子の甚九郎正勝が鳴海城主となり、鳴海の城下町が整備されることになる。作町などは佐久間親子から来ている町名だ。 1590年、豊臣秀次が近江八幡より尾張の領主となり、この年に鳴海城は廃城となったとされる。
神社境内の由緒書きによると、天神は城の鎮守だったものとある。とすると、この社はいつ誰が勧請したものということになるのだろう。安原備中守宗範ということも考えられなくはないけど、山口佐馬助教継父子なのか、佐久間右衛門尉信盛父子なのか。あるいは、もっと後のことなのか。 この点もよく分からなくて引っかかる部分のひとつだ。 天神社は成海神社の飛地境内社という扱いになっており、祭神は成海神社と同じとしている。ということは日本武尊(やまとたけるのみこと)を主祭神として、宮簀媛命(みやずひめのみこと)と建稲種命(たけいなだねのみこと)を祀っていると考えていいだろうか。 でも、どうして天神社という名前なのだろう。「あまつかみ-しゃ」と読ませるように、菅原道真の天満宮ではない。天津神といえば国津神に対する天神ということでかなり漠然とした呼び名だ。 最初から天神社という名称だったのかそうではなかったのか、そのあたりもよく分からない。 現在地を天神山というのだけど、これはけっこう古い地名のようで、ひょっとすると天神社よりも天神山の地名が先かもしれない。
神社西の切り通しの道は近代になって作られたもので、かつての天神社は鬱蒼とした大木に囲まれていたという。今は石垣が組まれた上に鎮座してあたりを見渡すことができるのだけど、昔はこうではなかったということだ。 今昔マップで変遷を辿ると、この天神社は道路の整備状況によって細かく動かされたのではないかと考えられる。 明治中頃(1888-1898年)を見ると、現在の場所に鳥居マークはなく、少し南に卍マークがあり、道の向かいの今の誓願寺あたりに鳥居マークがある。もともとこの場所にあったのだろうか。卍マークは圓龍寺ではないかと思う。 1920年、鳥居マークは少し北に移る。今の場所の道の向かい側で、園道寺のあたりだ。その下にある卍マークは誓願寺だろうか。 1932年、また鳥居マークが動く。神社があるのは道と道に挟まれたところになっている。 1960年以降は鳥居マークと卍マークが今の配置になった。鳴海の町が大きく発展して田んぼが消えていったのもこの頃だ。
10月第2日曜日の成海神社の例大祭では神輿渡御が行われ、御旅所となっている天神社で御旅所祭が執り行われる。 その後、南の扇川で御船流神事がある。
結局のところ、天神社の成り立ちについてはよく分からないというのが結論ともいえない結論となってしまう。御旅所として建てられたのは江戸時代に入ってからと考えるのが妥当だろうか。 安原備中守宗範が乙子山の広い社地に移して造営したことで成海神社は立派な県社となった。成海神社は名古屋を代表する神社のひとつといっていいと思うのだけど、天神山にそのままあったら今頃どんな神社になっていただろうと想像すると、それも見てみたかった。
作成日 2018.11.23(最終更新日 2019.4.10)
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