現在地に1630年(寛永七年)に創建された神明社と、少し西の小幡越(今の清水小学校がある場所 / 地図)に1552年(天文十年)年に建てられた八幡社を合併させた神社で、それは明治39年(1906年)のことだった。 どちらかがどちらかを吸収合併するのではなく並び立つように両社の名前を残すというパターンは、北区の八王子神社春日神社と同じだ。名前は長ったらしくなるけど、両社を丸く収めるという点ではいい方法かもしれない。 合殿は相殿と書く場合は「あいどの」だけど、合殿なので「ごうでん」かもしれない。 幟(のぼり)に杉ノ宮とあるように、地元の人たちの間では杉ノ宮神社と呼ばれることが多いようだ。 このあたりは杉の付く地名が多い。この神社があるのは中杉、南は大杉、東は杉栄で、江戸時代まではこのあたり一帯を杉村と呼んでいた。 神社の少し西を旧木曽街道が南北に通っており、街道沿いには清水町(志水町)が発展し、その東隣が杉村ということになる。名古屋城下の北のはずれあたりといえばなんとなく想像がつくだろうか。
『愛知縣神社名鑑』はこの神社についてこう書いている。 「神明社は寛永七年(1630年)2月、名古屋藩士小笠原総左ヱ衛門この地に創建し、八幡社は天文十年(1541)同村字八幡越に勧請したと伝う。明治39年、1月6日、神明社に合殿する。大正9年10月9日、指定村社となる」
『寛文村々覚書』(1670年頃)の杉村の項を見るとこうなっている。 「社四ヶ所 神明 八幡 八王子 蔵王権現 祢宜当村 箕浦与大夫 森右馬大夫持分 社内六反四畝弐拾八歩 内六反弐畝弐拾八歩前々除 二畝歩年貢地」 蔵王権現は今の片山神社のことで、八王子は名古屋城築城の際に志水に移され、後に春日神社と合殿になった八王子神社春日神社のことだろう。志水町も部分的に杉村に属していた。
『尾張志』(1844年)が書かれた江戸時代後期までに杉村は東杉村、中杉村、西杉村に分かれていて、神社も増えた。それぞれ以下のようになっていた。 「富士社 白山社 三狐神ノ社 三社ともに東杉村にあり 神明社 八劔社 八幡社 春日社 愛宕社 五社ともに中杉村にあり 春日社 八王子社 西杉むらにあり」 東杉村は現在の杉村1丁目に集落があり、中杉村は中杉町と大杉一帯が村域だった。中杉村と西杉村、志水町の境界が曖昧ないのだけど、今の清水が西杉村だった。 これらの神社は整理されて残っているものは少ない。
『尾張徇行記』(1822年)は杉村の神社をこのように書いている。 「富士祠 白山祠 三狐神祠倶在東杉村 八剣祠 八幡祠 春日祠 愛宕祠倶在中杉村 春日祠 八王子祠倶在西杉村 修験常国院書上ニ、神明外宮八剣宮愛宕社内三畝村除 八幡宮大日堂春日社 東西十二間南北廿二間 前々除 八王子社人青山主馬書上ニ、八王子社内六畝六歩御除地、春日社内一畝二十四歩御除地」 中杉村にあった八劔(八剣)と愛宕は今はないので、神明社八幡社に合祀されたのではないかと思う。 この神明社はどうやら外宮から勧請したもののようで、それゆえに祭神としてクニノトコタチ(国常立尊)を祀っている。
江戸時代、神明社でクニノトコタチを祀ることがあった。江戸時代の前期から中期に創建された神社が多い。 それはおそらく、度会神道とも呼ばれた伊勢神道から来ていると思われる。 伊勢の外宮の禰宜だった度会氏(わたらいうじ)が「神道五部書」を基にして唱えた神道説で、鎌倉時代から南北朝時代にかけて度会行忠、家行、常昌らが体系化し、室町から戦国にかけていったん廃れたものの、江戸時代に入って度会延佳(出口延佳)が儒教や仏教、道教などを取り込んで再興させた。 伊勢神道においてクニノトコタチは天之御中主神、豊受大神とともに重要な根源神とされた。 伊勢神道の影響を受けた吉田神道ではクニノトコタチとアメノミナカヌシを同一神として宇宙の根源神に位置づけた。 大本教などの教派神道でもクニノトコタチを最重要神としたところがある。
大本教は、明治25年(1892年)、京都綾部に住む出口直(なお)というおばあさんに突然、艮の金神(うしとらのこんじん/東北の祟り神)がとりついて神懸かり状態になってしまったことから始まる。 神道家の王仁三郎(のちに出口直の養子となる)は、この神をクニノトコタチと判断し、ふたりは大本教団を作り、クニノトコタチによる世直しを掲げて布教活動を始めた。 大正から昭和初期にかけてそれは大きなうねりとなる。 宮中の関係者や軍の将校なども多数参加したことから国が問題視するようになり、国家による宗教弾圧へと発展していった。 明治以降、国はアマテラスを最高神とする神道国家を目指していた中で、別の神を最高神とする宗教団体を放置しておくわけにはいかなかった。それだけ大本教の影響力が大きくなっていたということだ。 大正10年(1921年)と、昭和10年(1935年)の二度にわたって大弾圧が行われ、大本教は壊滅的な打撃を受けることになった。
木曾の御嶽山の山頂に祀られているのもクニノトコタチだ。 木曽御岳は702年に 役小角が開山し、高根道基が山頂の剣ヶ峰に御嶽神社奥社(web)を建てた。続いて774年、信濃国司の石川望足が勅命によって大己貴命と少彦名命を祀り、三柱をあわせて御嶽大神とした。 クニノトコタチをネットで検索すると、御嶽山噴火とJAL123便の墜落事故のことがヒットする。そのあたりの話はこのサイトの趣旨から外れるので触れないけど、御嶽山に祀られている三柱の神が象徴するように、クニノトコタチは大和(天津神)に対して出雲の側の神(国津神)として捉えられている。 付き従っているオオクニヌシとスクナヒコナは地上で国造りをした神だ。オオクニヌシは高天原を追放されたスサノオの子(もしくは子孫)で、天孫降臨のニニギに国を譲って(奪われて)出雲大社(web)で祀られることになった。 京都にある御蔭山(みかげやま)は古くからクニノトコタチが鎮座する地として山そのものが御神体となっている。長く禁足地とされ、現在でもクニノトコタチを祀る磐座までしか立ち入ることが許されていない。 その御蔭山の麓(ふもと)には丹波国一宮の出雲大神宮(web)がある。社殿が建てられたのは702年とされる。 出雲大神宮の社伝によると、出雲大社は出雲大神宮から勧請されたとしている。
名古屋において外宮系の神明社ではトヨウケよりもクニノトコタチを祀るとしているところが多い。それだけ伊勢神道の影響を強く受けていたということだろう。 この神明社を創建したとされる小笠原総左ヱ門という尾張藩士がどういう人物だったかは調べがつかなかった。『尾張志』の人物の項には載っていないのでそれほど重要人物ではなかったか。 小笠原流というと弓術や馬術、礼儀作法などの故実を伝える家がよく知られている。ひょっとするとこの人物もそういう一族だったかもしれない。
八幡社については1552年創建という以外に情報がなく、詳しいことは何も分からない。 1552年といえば戦国時代の後期で、まだ名古屋城は築城されていない。その前身となった那古野城は1532年に織田信秀が今川から奪って居城にしていた。1534年生まれの信長は那古野城で生まれたという説もある。 信長が信秀の死去で家督を継いだのが1551年だから、時代的にはそのあたりのことということになる。 杉村がいつ頃できたかということなのだけど、このあたりは名古屋台地の下で、弥生時代以降の遺跡が多く見つかっていることから、古くから人が暮らしていた土地だったことは間違いない。 場所柄と時代から考えて、武将が建てたのだろうと想像はするけど、それが当たっているとは限らない。
『愛知縣神社名鑑』によると、7月28日に特殊神事の茅輪神事と赤丸神事が行われるとある。今も続いているのかどうか分からないのだけど、そういった特殊神事が行われる神社は古いところが多い。 八幡社はもっと古い神社で、戦国時代に八幡社になったという可能性は考えられないだろうか。 中杉村にかつてあった八劔社は熱田の神で、愛宕は京都愛宕山の火の神様だ。それらがどうなってしまったかも気になるところだ。 神社は表面からでは分からないことが多いと、あらためて思う。
作成日 2017.3.31(最終更新日 2019.1.13)
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