”まぐろ”神社とは変わった名前だ。どこからこの名称が来ているのか、まず最初にそのことが気になった。 このあたりの地名ではなさそうだし、主祭神はスサノオだからそこから来ているわけでもなさそうだ。間黒は当て字で、「まぐろ」という言葉に何か意味があるのだろうか。
『愛知縣神社名鑑』はこの神社についてこう書いている。 「社伝によれば、徳川家光将軍寛永十三年頃(1636)産土神として創建したという。明治5年7月村社に列し、明治43年6月6日許可をうけて同字屋敷に鎮座の無格社市杵島社、無格社山神社の両社を、明治44年10月1日合祀した。大正2年1月28日に許可ををうけ字森東に鎮座の神明社を同年5月10日合祀した。昭和36年5月本殿、拝殿、手水舎を造営する」
現在の幸心は江戸時代は幸心村といっていた。 『寛文村々覚書』(1670年頃)の幸心村の項を見ると神社はこうなっている。 「社五ヶ所 内 天王 神明 白山 山神 弁才天 社内三反四畝歩 前々除」 間黒神社の祭神がスサノオとなっていることからすると、この天王が間黒神社のことだろう。天王社だから牛頭天王を祀っていたと考えられる。 前々除とあるから1608年の備前検地のときにはすでに除地となっていたということだ。だとすると、創建は社伝がいう1636年より前の戦国時代もしくはそれ以前ではないのか。鎌倉時代創建ではないかという話もある。 幸心村がいつ頃できたのかは分からないのだけど、文献上の最初は『信雄分限帳』に出てくる「こう志ん」とされるので、少なくとも戦国時代には村ができていたことになる。 ただし、集落としてはもっとさかのぼるかもしれない。 産土神として創建したのであれば、それは集落ができたときと時期を同じくするということで、やはり1636年では遅すぎるように思う。幸心村の他の神社もすべて前々除となっているということもそれを示している。 『尾張志』(1844年)、『尾張徇行記』(1822年)も同じ神社を載せているので、江戸時代を通じて幸心村の神社はこの五社で変わらなかったようだ。 『愛知縣神社名鑑』がいうように、明治末に神明社、山神社、弁才天社(市杵島社)は間黒神社に移された。白山社についてはどうなったのか追跡できていない。今の幸心に白山社はなく、間黒神社の本社でも祀られていないから、別の地区の神社に合祀されたか廃社になったか。
幸心村(こうしんむら)の村名は常雲寺(地図)の庚申堂(こうしんどう)から来ているという説がある。『尾張徇行記』は常雲寺より前に庚申堂があって、庚申村と呼ばれていたといっている。 寺は間黒神社のすぐ北に隣接するようにしてあるから、江戸時代は寺と神社は一体化していたのではないだろうか。 庚申信仰は、中国の道教を基礎に仏教や密教、神道、修験道、民間伝承など様々な信仰が組み合わされて日本で発展したものだ。 庚申(こうしん/かのえさる)は、干支(えと)の十二支と十干(じっかん)の甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸を組み合わせたもので、この年、またはこの日には禁忌行事を行う風習があった。 人の中にいる三尸 (さんし)の虫が体を抜け出して天に罪を告げに行くと信じられていたため、この日は眠らずに夜明かしするというようなことをやっていた。 平安時代の貴族から始まり、室町期には酒を飲んだりする遊興的な行事になって、江戸時代に庶民の間で流行した。 祟りを恐れてこの日は男女間のあれこれを避ける習わしもあったようだ。 神仏習合の過程で日吉(ひえ)の山王信仰と結びついたり、申(サル)つながりでサルタヒコ(猿田彦大神)とも結びついていった。 庚申信仰でよく知られているのが奈良県大和郡山市の金輪院(こんりんいん)で、ここは大和国の庚申信仰総道場とされている。 京都の東山には八坂庚申堂と称される金剛寺(こんごうじ/web)がある(大阪四天王寺/web、東京浅草寺/webとともに日本三庚申のひとつ)。 金剛寺の山号を大黒山という。京都東山といえば牛頭天王を祀る祇園社(八坂神社/web)がある場所だ。もしかすると間黒神社はここと関係があるのかもしれない。 大黒山と間黒神社の黒つながりで、祭神がサルタヒコではなくスサノオというのであれば、京都東山の八坂庚申堂との関連はどうなのか。 津田正生は『尾張国地名考』の中で、猿田彦神が土を盛って鼎竈(かなえがま)を作ったことから幸神と呼ばれるようになったことを例に挙げて幸心は幸神が正しいと書いている。 そうなると、天王社も猿田彦が関わってきているということもあり得るのか。
神社の少し西を南北に国道19号線が走っている。江戸時代は中山道の大井宿と大湫宿の間にある槙ヶ根追分と名古屋城下の伝馬町札の辻をつなぐ脇街道で、善光寺道や伊勢道、名古屋道、下街道などと呼ばれていた。 ヤマトタケルが東征を終えた帰りに通ったという伝承が残るくらい古くからあった道だ。内津峠でタケイナダネが駿河の海に落ちて死んだという知らせを受けたヤマトタケルは「ああ 現哉(うつつかな)、現哉」と嘆いて、その場所に内々神社(うつつじんじゃ/web)が建てられたとされている(686年)。 公人は上街道を通らなければいけないと定められており、一般の人たちは下街道を通った。木曽方面には御嶽山や善光寺(web)があり、名古屋から西には伊勢の神宮(web)があるから、かなり人通りがあったという。旅人たちはその途中でこの神社にも参拝していったんじゃないだろうか。 平安時代から室町にかけて、このあたりに幸心城(こうしんじょう)があったとされる。城主は山田氏というから山田重忠の一族かもしれない。遺構などは残っておらず、詳しいことは分からない。
矢田川右岸の幸心や瀬古地区は、たびたび川が氾濫して被害を受けたところで、石垣を組んでその上に家屋や蔵を建てる水屋と呼ばれる建物がある。 間黒神社の社殿も水屋造りになっていて、これは全国的にみても珍しいそうだ。 境内の中程に川が流れていて、ちょっと驚く。自然の川ではなく、用水路だ。神社が建てられたあとに掘られたものだろう。 水路に架かっている橋を神明橋と呼んでいる。 かつての神明橋の欄干には傷跡があった。第二次大戦で飛来して高射砲隊によって撃墜されたB29爆撃機の墜落跡という。 近くには三菱重工業名古屋発動機製作所があり、そこが爆撃目標だったようだ。瀬古に墜落するとき、神明橋の欄干に尾翼をぶつけたと伝わっている。 墜落死した米兵は宝勝寺や誓願寺に葬られ、戦後米軍に引き取られて里帰りすることになった。 神社にはそんな歴史も刻まれている。
間黒神社は昭和28年(1953年)に改称しているのだけど、これは間黒社から間黒神社に改称したということではないかと思う。 間黒社と称するようになったのが江戸時代でないとすれば明治からということで、神仏分離令を受けて常雲寺と分かれたときから間黒社になったのではないだろうか。 明治12年(1879年)に寺社側から春日井郡長に提出された神社明細帳では「間黒社」となっているから、たぶんそうだろう。 明治時代、瀬古のあたりは高間村となったのだけど、これは高牟神社の「高」と間黒神社の「間」をあわせて村名にしたものだ。 間黒の由来について、神社説明書きでは、水害の多い土地だったので高天原(たかまがはら)のような地になるようにという願いを込めて、高牟神社の「たか」に対して「ま」の付く言葉ということで「まぐろ(間黒)」にしたというようなことを書いている。 ピンと来ないし、本当とも思えない。 実際のところ高天原の「ま」から来ているとすると、「黒」はどこから来ているのかという話になる。 結局「間黒」の由来がよく分からずもやもや感が残った。何か分かれれば追記したい。
【追記】 2021.5.7
この地区の旧住所は「守山区大字守山字間黒」だったと地元の方に教えていただいた。 ということは、間黒神社の間黒は地名の間黒から来た可能性が高い。 しかし逆に、間黒神社が先で地名が後付けという可能性もわずかながら残る。 高天原云々というのは信じられないのだけど、突拍子もない話だけに古い歴史と関わりのある土地とも考えられる。 間黒はたぶん当て字だから「まぐろ」という音から来ているのか、もともとは別の文字で表記していたのか。 地名が先だとすると地形由来かもしれないけど、ちょっと思いつかない。 答えを知ってみれば、なんだ、そんなことか、ということになりそうではあるけど。
作成日 2017.4.5(最終更新日 2021.5.7)
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