本名は藤原景清で藤原秀郷の後裔
平景清こと藤原景清は、平安時代末の武士で、源平合戦で名を馳せた人物として知られる。 ただ、『平家物語』ではちらっと出てくる程度で、当時からそれほど有名だったわけではなさそうだ 。後世、伝説がひとり歩きして、能や人形浄瑠璃、歌舞伎などで描かれたことで広く知られるようにな った。それらを総称して「景清物」と呼んでいる。能の『景清』や近松門左衛門作の人形浄瑠璃『出世景清』などを見たことがあるという人もいるだろう。 源平合戦(治承・寿永の乱/1180-1185年)といっても源氏と平家だけが真っ二つに分かれて戦ったわ けではない。当然ながら源氏でも平氏でもない家の武士たちも大勢参加している。実際に戦闘をしたのは武士でも、天皇や朝廷の権力争いが元にある。 景清が平景清と呼ばれているのは平家側で戦ったからで、本名が示すように藤原家の人間だ。 父は藤原忠清で、景清は七男だったとされている。父の忠清や兄たちも源平合戦に参加している。 この藤原家の祖は藤原秀郷といわれる。藤原秀郷といえば、939年に平貞盛や藤原為憲とともに平将門の乱を鎮めた人物だ。 藤原秀郷の出身については諸説あってはっきりしない。藤原北家魚名流とも、下野国史生郷の土豪・鳥取氏ともいう。 この一族は伊勢に領地を得たときに(伊勢国度会郡古市荘)、伊勢の藤原ということで伊藤を名乗るようになり、景清は伊藤景清とも称したとされる。 悪七兵衛という異名でも知られる景清はかなりの剛の者で、この場合の悪は悪人という意味ではなく猛者といった意味合いで使われた。 父の忠清が上総介だったことから上総七郎とも称したとされる。
父・忠清の活躍
景清の父・忠清は、1156年の保元の乱に平清盛軍の先陣として源為義と戦っている。 後白河天皇と崇徳上皇との権力闘争に武士の力を借りて戦争をしたことが後の武士の台頭を許すことになる直接のきっかけになった。 平治の乱(1160年)を経て、治承三年の政変(1179年)の後、上総介に任ぜられた。 1180年に起きた富士川の戦い(源頼朝・武田信義と平維盛との合戦)では副将として参戦している。 この戦いは平家側圧倒的数的不利で退却を余儀なくされ、平清盛に激しく叱責されている。 1181年に平清盛が死去すると、情勢は源氏優勢、平家劣勢へと大きく傾いていく。 1183年の平家一門都落ちには従わず、平田家継らともに伊賀・伊勢で反乱(三日平氏の乱)を起こすも鎮圧され、志摩国麻生浦で捕らえられて京の六条河原で処刑された。
『平家物語』における景清の活躍シーン
景清は父や兄とは別行動を取っている。 1180年の富士川の戦いの後、信濃守を任ぜられ、源平の戦いに参加するようになった。生年がはっきりしないからよく分からないのだけど、このときはまだ若者だったに違いない。 1183年には平知盛に従って木曾義仲と戦い、屋島の戦い(1185年)にも参戦している。 『平家物語』で景清の活躍が描かれるのは、この屋島の戦いのときだ。有名な那須与一が海上の扇の的を射る場面で出てくる。 那須与一が船の上の扇を射落とすと、平家側も源氏側も大いに盛り上がり、平家の側から黒革の鎧を身につけ長刀を持った50歳くらいの男が舞い踊り始めたので、義経はあいつも撃ってしまえと命じ、那須与一が射殺すと、平家側は卑怯ではないかと騒ぎだし、海岸沿いで船と馬で小競り合いになる。
判官安からぬ事なり馬強ならん若党共馳せ寄つて蹴散らせと宣へば武蔵国の住人美尾屋四郎同藤七同十郎上野国の住人丹生四郎信濃国の住人木曾中次五騎連れて喚いて駆くにまづ楯の陰より塗箆に黒保呂矧いだる大の矢を持つて真先に進んだる美尾屋十郎が馬の左の鞅尽くしに弭の隠るるほどにぞ射籠うだる屏風を返すやうに馬はどうと倒るれば主は弓手の脚を越え馬手の方へ下り立ちてやがて太刀をぞ抜いたりけるまた楯の陰より長刀持つたる男一人うち振つて懸かりければ美尾屋十郎小太刀大長刀に叶はじとや思ひけん掻き伏いて逃げければやがて続いて追つ駆けたり長刀にて薙がんとするかと見るところにさはなくして長刀をば弓手の脇に掻い挟み馬手の手を差し延べて美尾屋十郎が甲の錣を掴まうとす掴まれじと逃ぐる三度掴み外いて四度の度にむずと掴む暫しぞ堪つて見えし鉢付けの板よりふつと引き切つてぞ逃げたりける残り四騎は馬を惜しうで駆けず見物してぞ居たりける美尾屋十郎は御方の馬の陰へ逃げ入つて息継ぎ居たり敵は追うて来ず白柄の長刀杖につき甲の錣を高く差し上げ大音声を揚げて遠からん者は音にも聞け近からん者は目にも見給へこれこそ京童部の喚ぶなる上総悪七兵衛景清よと名乗り捨ててぞ退きにける平家これに少し心地を直いて悪七兵衛討たすな者共景清討たすな続けやとて二百余人渚に上がり楯を雌鳥羽に築き並べて源氏此処を寄せやとぞ招いたる
源氏方の美尾屋十郎が馬に乗って攻めてきたので馬を射ると美尾屋十郎は落馬し、太刀で応戦しようとしたら大太刀を持った男が向かってきたので、これはかなわないと逃げだし、平家の男は美尾屋十郎がかぶっていた兜の錣(しころ/両側に垂れている部分)を鷲掴みにし、三度、四度と引き合いにあり、最後は錣がちぎれて、美尾屋十郎はなんとか逃げ延び、男は我こそは京の童たちが噂する上総悪七兵衛景清、よく見るがいいと名乗りを挙げた、といった内容だ。 しかし、『平家物語』での景清の見せ場はここだけで、このときも名乗るだけ名乗って帰ってしまったとある。 壇ノ浦の戦いにも参加するも、活躍が伝えられることはなく、生け捕りになることなく逃げ延びている。しかし、その後、源氏方に捕らえられた。 『吾妻鏡』によると、兄の上総五郎兵衛尉忠光とともに頼朝暗殺を企て、鎌倉二階堂の永福寺の造営中に待ち構えていたところを怪しまれて捕まったという。 身柄は当初、和田義盛の預かりとなった。 和田義盛は源頼朝の挙兵に参加し、治承・寿永の乱では源範頼の軍奉行を務めた人物だ。戦場で戦う武将というよりも軍事の事務方といった性格が強い。 そのこともあってか、景清は和田義盛預かりながら好き放題にやっていた。酒を飲んで騒ぎ、運動不足だといって邸内で馬を乗り回したりした。 困り果てた和田義盛は源頼朝に頼んで景清の預かりを辞退した。 代わって預かり先となったのは八田知家だった。 八田知家は勇猛な武者であり、情け深い人格者だったとされ、その人柄にほだされたのか、景清は人が変わったようにおとなしくなってしまったという。 あるときから洞窟に籠もって念仏三昧の日々を送るようになり、八田家が運ぶ食事にも手を付けず、ついには80日後に餓死したという。 それが1195年というから、壇ノ浦の戦いから10年の歳月が流れていた。 鎌倉の化粧坂にそのときの洞窟と伝わる場所があり、景清窟などと呼ばれている。 その他、法師となって常陸に移り住んだという話もある。
ひとり歩きする景清伝説
このように、景清に関する逸話というのは決して多くはないのだけど、その分、想像を膨らませる余地があり、後世に景清物と呼ばれる多くの作品が作られることになった。壇ノ浦の戦いを生き延びして頼朝暗殺に執念を燃やすといったことは作品の材料としては恰好のものだった。 日本各地に景清にまつわる史跡がある。屋敷跡や壇ノ浦の後に隠れ住んだ場所、墓所などだ。 名古屋にも熱田に景清伝説が残っている。屋敷があったとされる伝承地が3ヶ所もあることから、景清本人が隠れ住んだのではないにしても、何らかの関わりがあったのではないかと思う。 景清の妻や子についてはまったく伝わっていないものの、妻の小野姫が熱田大宮司の藤原季範の娘だったという話があり、そのつてを頼ったのではないかともいう。 それがまったく作り話とも思えないのは、熱田神宮が所蔵する脇差しの痣丸(あざまる)が眼病に悩まされていた景清が熱田社に奉納したという伝承があるからだ。 景清には何故か、目に関する伝承が多い。
熱田における景清伝承
痣丸は刀に映った自分の顔のあざを見たことでそう名付けられたという。 信長の父・信秀が美濃攻めをした際、熱田社大宮司の千秋季光がこの痣丸を持って出陣したら戦死したと『信長公記』にある。 刀は斎藤家の陰山一景が所有することになると、大垣城攻めのとき陰山一景は両目に矢が当たって失明してしまう。次の所有者となった丹羽長秀も眼病を煩い、再び熱田社に奉納されることになったとされる。どういうわけか、景清の話にはいつも眼のことが出てくる。 謡曲『景清』は、こんな内容となっている。 熱田の遊女との間に人丸という女の子ができたので鎌倉に預け、自分は盲目の琵琶法師として日向国で貧乏暮らしをしていた。あるときひとりの女性が噂を聞いて日向国を訪れ、父を捜している途中、琵琶法師に父のことを訊ねると、最初はそんな人は知らないと答えるのだけど、やがてその琵琶法師が父ということが分かり、人丸と景清は親子の再会を果たし、琵琶法師は源平合戦のことを昔話として語るのだった。 熱田で景清を祀る景清社は眼病に効くと昔から語り伝えられてきた。 熱田における景清伝説と景清社については江戸時代にはすっかり話として定着していたようで、松尾芭蕉も熱田社を参拝したとき景清社にも立ち寄っている。
語り継がれる平景清
源平合戦の後、時代は武士の世の中となった。源平合戦では平家の下について戦った藤原氏は、五摂家として存続し、朝廷で一定の力を持ち続けた。 明治維新後は公爵となり、現代までその血脈は続いている。近衛家、鷹司家、九条家などがそうで、皇族との関係も近い。 時代は変わっても変わらずに続いていることもある。 平景清の名は今も語り継がれ、これからも伝えられていくことだろう。
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