『延喜式』神名帳(927年)に「愛智郡成海神社」、『尾張国内神名帳』に「正二位成海天神」とある神社で間違いない。 式内社を名乗っていても確実にそうだといえる神社は実は少ない。明治に入って神仏分離令が出されたあとに調査が行われて当てはめたところも多く、その頃にはすでに分からなくなっているものが少なくなかった。 そんな中でも成海神社は確実に式内社といえる数少ない神社のうちの一社だ。それを疑う人はほぼいないはずで、疑うことを使命としているかのような津田正生ですら疑問を呈してはいない。 686年にヤマトタケルの故事にまつわる鳴海の地に、ヤマトタケルを祀る神社を建てた。それが成海神社だ。 神社の社伝も、『尾張志』(1844年)、『尾張名所図会』(1844年)、『尾張徇行記』(1822年)なども口を揃えて同じこといっている。
686年(天武天皇朱鳥元年六月)、熱田社(熱田神宮/web)に草薙剣(くさなぎのつるぎ)が戻ってきたのを機に、ヤマトタケル東征ゆかりの地に10の社を建てたと『熱田太神宮御鎮座次第本紀』に記されている。書かれたのは781年というから、927年に完成した『延喜式』よりも100年以上前だ。
そこでいう10社は、白鳥神社、水向神社、松姤神社、日長神社、狗神神社、成海神社、知立神社、猿投神社、羽豆神社、内津神社だった。 草薙剣が熱田社に戻ってきたとはどういうことなのかは少し順を追って説明する必要がある。『古事記』、『日本書紀』などの日本神話ではこのように語られている。 高天原から追放された素戔嗚尊(スサノオ)が、出雲で八岐大蛇(ヤマタノオロチ)を退治したときに尾から出てきた天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)が後の草薙剣とされる。 スサノオは天界の天照大神(アマテラス)に献上し、瓊瓊杵尊(ニニギ)が地上に降臨するときに授け、のちに伊勢の神宮(web)に移されて祀られることになった。 ヤマトタケルが父親の景行天皇に命じられて東国の賊を討伐する旅に出たとき、伊勢に立ち寄って叔母にあたる倭姫(ヤマトヒメ)を訪ねた。そのときヤマトヒメは天叢雲剣をヤマトタケルに渡した。 焼津で火攻めされてピンチに陥ったヤマトタケルは天叢雲剣で草をなぎ払って勝利を収め、それを機に草薙剣と名前を改めた。 ヤマトタケルは東征の前に火高(大高)の尾張氏の邸宅に立ち寄っている。そのときの主人が乎止与命(オトヨ)で、その娘の宮簀媛(ミヤズヒメ)を見初めて、戻ってきたら一緒になろうと約束を交わした。オトヨの息子でミヤズヒメの兄の建稲種命(タケイナダネ)は、東征の副将軍として従った(タケイナダネは東征から戻る途中、駿河の海で溺れて死んでしまう)。 火高の火上山の邸でヤマトタケルはミヤズヒメを妃としてしばしとどまり、穏やかなひと時を共に過ごした。 その後、伊吹山の賊を退治するために向かうとき、草薙剣をミヤズヒメに預けていった。どうして剣を置いていったのかは語られない。 伊吹山の神に負けたヤマトタケルは、命からがら逃げ出すも、三重県亀山の能褒野(のぼの)で命を落とす。ヤマトタケルこのとき30歳。西暦でいうと113年だったとされる(年代についてはいろいろあるので一応そういうことに)。 残されたミヤズヒメは草薙剣とともに火高の地でひとり過ごすことになり、数十年が過ぎた頃、自分はもう年老いたから草薙剣を守っていけない、だから祀る場所が必要だということで熱田の地に建てたのが熱田社とされる(熱田神宮の神宮号は明治元年から)。 熱田神宮の縁起では創建はヤマトタケルが死んだのと同じ113年としている。ミヤズヒメの晩年とするともう少し後ということになる。 ミヤズヒメが死んだ後、邸跡に建てられたのが火上姉子神社(ほのかみあねこのかみやしろ)で、195年創建としている。 時は流れて天智天皇時代の668年。 熱田社に祀られていた草薙剣が新羅国の沙門(修行僧)・道行によって盗まれるという事件が起きる。 しかし、海を渡ろうと舟をこぎ出したところ暴風にあって戻され、道行は捕まった。草薙剣は取り戻され、宮中に留め置かれることになる。 そのとき、宮中から草薙剣の代わりに送られてきた新剣を祀るために熱田に八劔社が創建されたという。 事件から18年後。天武天皇は病気になり、原因を占ったところ草薙剣の祟りと出たため、草薙剣は元の所有者である熱田神宮に戻されることになった。これが686年のことだった。 何故、新羅の僧が草薙剣を盗む必要があったのか、どうして取り戻した草薙剣を宮中に置くことになったのかなど、疑問点というか怪しいところがあるのだけど、そのあたりは明確にされていない。 とにかく草薙剣が戻ったことで熱田社は大喜び、これを記念してあちこちに神社を建ててしまおうというお祭り騒ぎになったのだろう。 では、どうして鳴海の地が選ばれたかというと、それには理由がある。
現在では想像することが難しいのだけど、熱田神宮は熱田台地の南端に位置しており、かつて目の前は海だった。鳴海もまた鳴海潟と呼ばれる海に囲まれた高台で、入り海を挟んで南に位置する火高(大高)も海辺の地だった。 地上ルートで移動するには遠回りで時間がかかりすぎるため、行き来は舟だったと考えられる。尾張氏は海人族の一面も併せ持っていたとされているから、舟の扱いには慣れていただろう。 ヤマトタケルが東征から戻る途中、鳴海の地で一時留まることになった。鳴海潟を見下ろす高台に立てば、ミヤズヒメが暮らす邸がある火上山が海の向こうに見えたことだろう。ヤマトタケルはそのとき、こんな歌を詠んだ。 「奈留美良乎 美也礼皮止保志 比多加知尓 己乃由不志保尓 和多良牟加毛」 現代語訳すれば、「鳴海浦を見やれば遠し火高地にこの夕潮に渡らへむかも」となる。 早く火高へ行きたいから夕方でもこの海を渡ってしまおうかといった心情を詠んだ歌だ。 この故事にちなんで、鳴海潟を見下ろす高台に成海神社は建てられた。現在の社地はのちの遷座地で、もともとは現在地から南500メートルほどの天神山(地図)と呼ばれる場所にあった。 今はすぐ南に鳴海駅があり、建物もたくさん建ってしまって遠くの大高を望み見ることは叶わないけれど、眼下の鳴海の浜に打ち寄せる波音を想像しながら遠くに見える火高山を思い浮かべてみると、何かこう胸に迫るものがある。
成海神社が移されることになったのは、そこに城を築くためだった。 室町時代前期の1394年、足利義満配下の安原宗範が鳴海城(根古屋城)を天神山に築くと共に、そこにあった成海神社を北の乙子山に移した。 戦国時代に入ると、信長の父・信秀に従った山口教継が城主となり、駿河の今川氏に対して備えていた。 しかし、信秀が死去して信長の代になったとき、山口教継は信長を見限り、城ごと今川家に寝返った。城主は息子の教吉に任せた。 これに対して信長は鳴海城を囲んで攻め落とそうとしたものの、守りが堅く落とすことができなかった。 ただ、信長の計略によって山口親子は今川義元に切腹させられた。 その後、今川家から岡部元信が送り込まれ、鳴海城は尾張における今川家の前線基地の役割を担うことになる。これがのちの桶狭間の戦いにも重要な意味を持つことになるのだけど、それはまた別の話だ。 鳴海城は1590年に廃城になったと伝わる。 成海神社旧地には、御旅所として天神社(あまつかみしゃ)が祀られることになった。 古来から成海神社では御舟流という神事が行われてきた。 秋の例大祭(10月第二日曜日)では、本社と御旅所を神輿で巡幸し、「大日本洲尾張国愛知郡 成海神社」・「疾病消除」・「御三神舩」と書かれた木板三枚を扇川に流す。ヤマトタケルが鳴海潟から舟で火高に渡った故事にちなむものだ。
かつては東宮大明神と呼ばれていた。熱田神宮の東にあることから名付けられたというのだけど、地理的に見ると成海神社は熱田神宮の東というより南だ。感覚的には東宮より南宮の方が合っているように思う。 東宮(とうぐう)というのは一般的に皇太子の住居のことを指す。そこから転じて皇太子のことをいうようになった。ヤマトタケルは景行天皇の皇子だから東宮と呼ばれることもあっただろうか。 『尾張国地名考』の中で津田正生は、「神寶に神鏡八面 古額一枚あり 額面に東宮日月少の五字あり 相傳へて小野道風の筆也といふ 此古額の文より東宮の名の出るなるへし」と書いている。 小野道風は894年生まれで967年に死去した平安時代中期の貴族で書家だ。生まれは春日井とされており、鳴海と縁があったかどうか。 昔から成海神社をよく知るお年寄りは、今でもオトグさん、オトゴさんなどと呼んでいるそうだ。
個人的な印象としては、とにかく立派な神社という感想に尽きる。さすが県社、威風堂々としていて陰りといったものがない。品行方正で明朗快活、文武両道で誰からも好かれ、どこへ出しても恥ずかしくない自慢の長男みたいな感じとでも言おうか。そんな神社が名古屋にひとつくらいあってもいい。 旧地にあった頃はヤマトタケルを祀る私的な神社だったのが、遷座で今の地に移って官社になったといったところだろうか。移さずに元の場所にあったら今とはずいぶん違う神社だったのではないだろうか。それがちょっと残念なような気もする。 成海神社を訪れた際は、旧地にも立ち寄ることをオススメしたい。
作成日 2017.4.16(最終更新日 2019.3.30)
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