平将門の乱を熱田の神々が鎮めた | |
読み方 | ななしょ-じんじゃ |
所在地 | 名古屋市南区笠寺町字天満12 地図 |
創建年 | 伝941年(平安時代中期) |
旧社格・等級等 | 郷社・八等級 |
祭神 | 日本武尊(やまとたけるのみこと) 須佐之男尊(すさのおのみこと) 宇賀魂命(うがみたまのみこと) 天穂日尊(あめのほひのみこと) 天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと) 乎止与尊(おとよのみこと) 宮簀比売尊(みやずひめのみこと) |
アクセス | 名鉄名古屋本線「本笠寺駅」から徒歩約14分 駐車場 あり(境内) |
電話番号 | 052-822-5405 |
その他 | 例祭 10月第1日曜日(第2日曜日?) |
オススメ度 | ** |
創建にまつわるいきさつははっきりしている。 祭神の顔ぶれを見ただけでも熱田神宮(web)に関わりが深いことが分かる。ただ、熱田関係の神社かといえば、そうでもありそうではない。七所の名前はこの熱田七柱の神から来ていることは間違いなさそうだ。 読み方は「ななしょ」としている。中村区岩塚にある七所社は「しちしょしゃ」と読ませるからちょっとややこしい。あちらも熱田神宮との関わりがある神社だ。 七所神社創建に関わる重要な人物が平将門と聞くと意外に思うんじゃないだろうか。平将門の乱を鎮めるために熱田の神々の力を借りて祈祷を行ったのが七所神社の興りとされている。 『愛知縣神社名鑑』はこの神社についてこう書いている。 「承平五年(935年)五月、平将門関東にて反逆騒乱を起す。朱雀天皇、将門追討の詔を下す依って熱田の宮七柱の神を鳥居山に迎え将門の降伏、天下安穏を祈祷する。天慶三年(940)乱治る。翌四年鳥居山に七社の神を奉斎して産土神として祀る。貞享四年(1687)四月、伊神長大夫好運、社殿を再建せりと、明治五年五月郷社に列し、明治四十年十月二十六日、指定社となる。『尾張志』に七所社笠寺にあり、熱田七社神をまつる社人を伊神右ヱ門と云う、とある。 『寛文村々覚書』(1670年頃)では七所宮となっている。 『尾張徇行記』(1822年)はこう書く。 「七所明神社祠官伊神筑後正書上ニ、境内二反四畝御除地 摂社 稲荷祠二区 秋葉祠 旅所境内三畝六歩年貢地村除 当社ノ草創ハ承平年中平将門降伏ノ為ニ熱田神輿ヲ星﨑ノ地ニ移シ奉リテ祈願アリ、将門退治ノ後天慶年中熱田七所ノ神ヲ祀レル由申伝ヘリ」 『尾張志』(1844年)は摂社に天王社と子安社もあると書いている。 平将門(たいらのまさかど)が生きたのは平安時代中期、朱雀天皇の時代だ。討ち取られたときの年齢が37歳(940年)だったという説を採るなら、生まれ年は903年ということになる。 平(たいら)の名が示す通り天皇の血筋を引いている。桓武天皇の5世孫に当たる。 生まれは下総国佐倉(千葉県佐倉市)とされていて、下総国一帯を支配する豪族だった。若い頃から武勇で名を馳せ、よく知られる存在だったという。 将門が朝廷に刃向かって関東で乱を起こした理由ははっきりしていない。いろいろな説があるのだけど、簡単に言ってしまえば成り行き上そうなってしまったということだったのだろう。 平氏と源氏の権力争いや領地争いに巻き込まれ、強かったことがかえって災いして、戦いに勝ちまくって勢いづいてしまった。それだけなら地方の争いということで朝廷も見逃したのかもしれないけど、国府を襲って国司を追放してしまったのがいけなかった。 そのまま勝ち進み、ついには関東八ヶ国の国府を占領して関東一円を手中に収めてしまった。関東独立を本気で考えていたのかどうかは分からない。天皇に対抗して新皇を名乗ったというのも自らの意志だったのかどうか。 生粋の乱暴者のように思われがちな将門だけど、15歳の頃に平安京に出て、藤原忠平と主従関係を結んでいる。藤原忠平といえば、朱雀天皇、村上天皇に摂政、関白として仕え、政務のほとんどを担っていた人物だ。その忠平が認めたくらいだから、ただの地方豪族というわけではない。 将門が乱を起こしたのが935年で、討ち取られたのが940年ということで、足かけ6年に渡っている。すぐに鎮圧されたという印象を持っている人も多いかもしれないけど、6年というのはけっこう長い。 その間、朝廷が何をやっていたかというと、全国の神社仏閣に命じて将門鎮圧のための祈祷を行わせていた。呪いで倒してやるといったところだ。 現代の感覚で言うとちょっと笑えてしまうようなことだけど、当時の人たちにとっては真剣なことで、有効な手段と考えられていた。朱雀天皇の父である醍醐天皇や藤原忠平の兄の時平などは、菅原道真を無実の罪で左遷したせいで怨霊になった道真によって呪い殺されたと信じられていた時代だ。将門の乱も、寺社の祈祷や呪術で鎮められると考えたとしても不思議ではない。 実際、伊勢の神宮(web)をはじめ、宇佐神宮(web)や賀茂社(web / web)、春日社(web)や石上神宮(web)などは積極的に祈祷を行い、反乱鎮圧が成功したのはうちのおかげだと言い張ったりもした。 中でもよく知られているのが成田山新勝寺(web)だろう。朝廷の命で京都から空海作の不動明王を持って下総へ行き、そこで祈祷を行ったところ見事鎮圧に成功して京に戻ろうとしたら不動明王が動かなくなってしまったのでそこに寺を建てることにした。それが成田山新勝寺の始まりとされている。 平将門を祀る神田明神(web)の氏子や関係者は、将門の御利益を受けられなくなるといけないからという理由で決して成田山に行かないなどという半分都市伝説めいた話もあるくらいだ。 最終的に将門は、朝廷から派遣された軍と地元豪族連合軍によって討ち取られることになる。最後は矢に射られてあっけなく絶命した。 首は京都の七条河原に晒された。これが史上初のさらし首(獄門)とされる。 しかし、何ヶ月も腐らず、夜な夜な目を見開いて胴体を返せとか、自分と戦えなどと叫び続けたという話が残る。 あるとき、首は関東に戻るために飛び去ったため、美濃の南宮大社(web)の隼人神が矢で射落とし、首が落ちたところに御首神社(岐阜県大垣市 / web)が建てられたともいう。 尾張で将門鎮圧に名乗りを上げたのが熱田社だった。 熱田大宮、八剣宮、日割宮、高倉宮、大福田宮、氷上宮、源田夫宮のそれぞれの神を神輿に乗せて、鳥居山(今の丹八山/地図)で祈祷を行った。 社伝では鎮圧翌年の941年に鳥居山に熱田の神を祀ったのが七所神社の始まりとしている。 現在の場所に移されたのは100年後の1040年頃とされる。以降、笠寺の氏神として祀られることになった。 どうして最初に鳥居山の地が選ばれたのだろうか。少し南へ行くと、星宮社(地図)があり、当時そこは海に突き出した岬の突端だった。熱田社と氷上姉子神社との中間地点というのも関係があっただろうか。あるいはそこが何か特別な場所とされていたのかもしれない。 菅原道真、崇徳天皇とともに平将門は三大怨霊のひとりとされている。 ただし、他のふたりとはやや事情が違っている。道真は無実の罪で左遷されたことが原因で、崇徳天皇は父親との確執や身内の権力争いに敗れたことを恨んで死んだのに対して、将門の場合はそれほど恨んで死んだとは思えない。本来であれば怨霊化する理由がない。少なくとも、無関係の人間に祟るようなことは望んでいなかったはずだ。 にもかかわらず将門が怨霊とされたのは、虐げられた人々がヒーローとして祭り上げたからだ。中央に対する不満を持っていた人々が自分たちの代弁者としたことで結果的に将門が怨霊としての使命を与えられることになった。自分たちの代わりに恨みを果たしてくれというわけだ。 将門は加害者ではなくむしろ被害者だったともいえる。確かに反乱を起こしたことは事実だし、人も大勢死なせているからそういう意味では加害者だ。しかし、死んだ後も本人のあずかり知らないところで勝手に自分のせいにされてきたのは心外に思っているんじゃないだろうか。 将門の死からすでに1000年以上の歳月が流れた。私たちはいいかげん、将門を怨霊から解放してあげるべきではないのか。過ぎたことは恨みっこなしということにして。 将門の恨みが怖いから七所神社に参拝するのはやめておこうなどと考える必要はない。そんなことで将門は人を恨んだりしないはずだ。 などと言いつつ、私がぽっくりいってしまったら、それは将門の怒りを買ったせいかもしれない。いや、だからそれ、オレのせいじゃないってと将門は言うかもしれないけれど。 作成日 2017.4.21(最終更新日 2019.8.7) | |
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