名古屋市内にいくつかある金刀比羅神社の中のひとつ。 久屋金刀比羅神社、円頓寺金刀比羅神社と区別するために熱田金刀比羅神社としておく。正式名は金刀比羅社となっている。
『愛知縣神社名鑑』はこの神社についてこう書いている。 「社伝に「往古京極高尚、四国讃岐国より若狭国小浜に国替えの際、日頃信仰していた象頭山金刀比羅宮に社参し船出する。海上に流れきた御神像を得て廷内に宮造りて祀る後、不浄を恐れて参勤の節、宝暦九年(1759年)三月、熱田幡屋の延命院に預ける。境内の不動堂に安置し日毎参詣者絶ゆることなし」 これの元ネタになっていると思われる記述が『尾張名所図会』(1844年)の中にある。 「金毘羅大権現 清(きよめ)の茶屋の西にあり。修験(しゅげん)延命院(えんみょういん)是を守る。夫当神体(それとうしんたい)は、京極高尚(きょうごくたかなお)讃州(さんしゅう)より若州小濱(にゃくしゅうをはま)へ移り給ふ時、象頭山(ぞうづさん)にまゐり、夫より船出ありしに、央(なかは)にして流れよる物あり。何心なく取上げしに神像の如し。高尚何の御像とも知り給はず。或夜千手観音、枕上に立ち給ひ、汝が海中にて得た像は金毘羅なり。汝が武運を守護し給はん。信心おこたるべからずと告げたまひて夢覚めぬ。高尚ありがたく思ひ給ひて、屋敷内に祀りたりしが、其後当地へ預け置かれしを、宝暦十年より当院に安置して、日々参詣たゆる事なく、霊験世に知るところなり」
しかしこの話、いくつかあれ? と思うことがある。 ひとつは京極高尚(きょうごくたかなお)なる人物だ。歴史の表舞台に登場する人物ではない。讃岐国(香川県)丸亀藩の藩主(丸亀城主)ではない。 それから、讃岐国から若狭国に国替えとなったというのも間違いで、京極家は若狭国小浜藩から松江藩を経て丸亀藩に転封(てんぽう)となっている。 京極家は宇多源氏の流れを汲む佐々木氏を源流とする名門で、鎌倉時代までは近江に本拠を置いていた。足利尊氏に仕えて活躍した佐々木道誉(京極高氏)などはよく知られている。 一番有名なのはやはり京極高次(きょうごくたかつぐ)だろう。信長、秀吉、家康に仕えた武将で、関ヶ原の戦いでは西軍につくと見せかけて東軍に寝返り武功を挙げた。 この活躍により家康から若狭一国を与えられ、初代小浜藩主となった。 息子の忠高(ただたか)の代に出雲国・隠岐国の松江藩に転封となり、忠高に嫡子がなかったため、改易になりかけるも、徳川家のはからいで甥の高和が後継者と認められ、減封された上で讃岐国丸亀藩の初代藩主となった。 この歴史的な流れを踏まえると、京極高尚なる人物が讃岐(丸亀)から若狭小浜に移る前に金毘羅に詣ったとき、海で像を拾って邸に祀ったという話もなにやら怪しく思えてくる。 しかもよく分からないのが、参勤の際に熱田の延命院なる寺院にその像を預けたという話だ。 この参勤というのは参勤交代のことなのだろうけど、高尚とはどういう立場の人だったのか。丸亀藩の歴代藩主は、高和、高豊、高或、高矩、高中、高朗、朗徹となっており、高尚の名は出てこない。藩主のうちの誰かの別名という可能性があるのかどうか。 熱田のこの場所は東海道の宮宿があった場所だから、若狭からでも讃岐からでも江戸に向かう通り道ではある。しかし、どうして地元ではなくわざわざ熱田まで持ってきて預けたのか、その理由が分からない。1759年になって急に預けようと思いついたのはどうしてだったのか。
延命院について『尾張徇行記』(1822年)はこう書いている。 「三宝院末流江州飯道寺岩本院同行ナリ、是ハ応永五年ノ比熱田社内ニアリシカ、同十一申年岡部又右衛門控ノ幡屋丁薬師堂境内ヘ引移セリ、其後貞享五辰八月暴風ニテ頺敗スルニ及テ今ノ地ヘ引越、其時本尊ノ薬師ヲ又右衛門ヘ返シ、其前立ノ小像ヲ残シテ安置ス 境内不動金毘羅相殿一宇アリ、不動堂ハ先年ヨリアリ、金毘羅ハ明和八年京極半左衛門ヨリユツリウケ、安永元辰年相殿ニ安置セリ」 三宝院というのは京都醍醐寺(web)の本坊で、歴代座主が居住する坊だ。そこの末寺だったことが分かる。 飯道寺は今も滋賀県甲賀市にあるものの岩本院は現存しない。 応永5年は室町時代(南北朝時代の後)の1398年に当たり、この頃までは熱田社の社内にあったようだ。それが応永11年(1404年)に岡部又右衛門が管理する旗屋町の薬師堂に移されたという。この岡部又右衛門は代々熱田社の宮大工の棟梁だった家だ。 その後、貞享5年(1688年)に暴風で薬師堂が壊れてしまい、薬師像を又右衛門に返して、今の場所(『尾張名所図会』がいうところの清茶屋の西)に前立像のみを安置する堂を作り直したようだ。 境内には不動堂と金毘羅があり、金毘羅は明和8年(1771年)に京極半左衛門から譲り受けたもので、安永元年(1772年)に不動堂に相殿として祀ったということだ。 京極半左衛門は京極高尚のことを指しているのだろうか。『愛知縣神社名鑑』は京極高尚が金毘羅の神像を預けたのを宝暦九年(1759年)としているのに対して『尾張徇行記』は京極半左衛門が明和8年(1771年)に譲ったとしている。 どちらが正しいのか、どちらも間違っているのかは判断がつかない。 その後、延命院がどうなってしまったのかは調べがつかなかった。現在、熱田のこのあたりに延命院という寺はない。今昔マップの明治中頃(1888-1898年)にいくつか卍マークが描かれているものの、このうちのどれかがそうなのかどうかは分からない。 明治の神仏分離令のときに金毘羅を神社として寺院は廃寺となったのかもしれない。 金毘羅像は今でも金刀比羅社が所蔵しているのだろうか。
こんな経緯を辿った神社でありながら意外にも出世している。 明治5年(1872年)に村社に列格し、明治40年(1907)には供進指定社となった。供進指定社というのは、正しくは神饌幣帛料供進指定社といい、神饌(しんせん)や幣帛(へいはく)を与えられた神社のことをいう。平たく言うと、地方公共団体から供え物や金銭がもらえる神社に指定されたということだ。他の村社よりも重要視されたということで、ちょっと格上ということになる。 『愛知縣神社名鑑』の中に「明治40年10月供進指定社となり南区として最初の供進使を迎えた」とある。あれ? 南区ってどういうこと? と一瞬思って、ああ、そうかと思い出した。 名古屋が区政を実施したのは明治41年(1908年)のことで、そのときは中区、東区、西区、南区と4つに分けた。このあたりは南区だったということだ。 熱田区が誕生したのは昭和12年(1937年)のことだった。 昭和20年3月12日の空襲で社殿を焼失。 現在の本殿は昭和56年に造営されたものだ。
境内社の水天宮については、いつどういう経緯で祀られることになったのか調べがつかなかった。 東京日本橋の水天宮(web)が安産の守り神としてよく知られているけど、総本社は福岡県久留米市にある水天宮(web)だ。東京の水天宮もそこから勧請している。熱田の金刀比羅神社にあるものもそうだと思う。創建の経緯からして、明治期以降のはずだ。 水天宮で祀られているのは、天御中主神、安徳天皇、高倉平中宮(建礼門院、平徳子)、二位の尼(平時子)だ。この顔ぶれを見れば壇ノ浦の戦いに関係していることが分かる。 安徳天皇と平家の霊を鎮めるために建てられたのが水天宮だ。それがどうして安産の神になったのかを書き始めると長くなるので、続きは水天社(白鳥)で書くことにする。 金毘羅や、祭神となっている大物主神、崇徳天皇のことについては久屋金刀比羅神社のところで少し書いた。
ずっと古くから熱田にあった神社かと思ったらそうではなかった。 金比羅の神像を拾った云々というのは話としては面白いし、まったくの作り話ではないかもしれないから、簡単に捨てるのはもったいない。歪んで伝えられたとしても、何かそういった事実があったのではないだろうか。それが神社となり、こうして今に続いているという事実は軽くない。
作成日 2017.4.29(最終更新日 2019.8.29)
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