進入不可で廃社?
読み方 | おんたけ-じんじゃ(ひがしごんげんちょう) |
所在地 | 瀬戸市東権現町 地図 |
創建年 | 不明 |
旧社格・等級等 | |
祭神 | 不明 |
アクセス | 名鉄瀬戸線「尾張瀬戸駅」から徒歩約15分 |
駐車場 | なし |
webサイト | |
例祭・その他 | |
神紋 | |
オススメ度 | *(ある意味**) |
ブログ記事 |
苦労して辿り着いたものの
この日の瀬戸の神社巡りの最終目的地だった東権現町の御嶽神社をなかなか見つけられなかった。
目印となる瀬戸工科高校はすぐ見つかったものの、どこからアプローチすればいいのか分からず、周囲をぐるぐる回ってしまった。
最後は自力で見つけるのを諦めて、下校中の瀬戸工科高校の学生二人組に訊いてみることにした。
「このへんに御嶽神社ありますか?」
「神社なんかあったかな」
「あの草ボウボウのところじゃない?」
ん? 草ボウボウ?
ここでプリントした地図を見せてみると、
「やっぱりあそこしかないんじゃない?」
「でも、あそこって、やってるのかな?」
半信半疑の二人。
とりあえず行ってみます、ありがとうと礼を言って、教えられた通りに行ってみると、あ、あった! と喜んだのも束の間、想像を遙かに超える草ボウボウぶりにしばし立ち尽くすことになった。
うーん、これはどうでしょう。
神社サイトを作るというある種の使命感を心に秘めて巡っている私としては、少々の困難には打ち克ちたいと思っている。
草に覆われているとか、道が悪いとか、上り階段がきついといった神社は頑張ればなんとかなる。
しかし、この御嶽神社は私の心を打ち砕いた。
これはダメだ…。
いやいや、そんなことはない、頑張れば行けるだろうと思ったあなたに下の写真をお見せしたい。
これ、行けます?
私は1分くらいは考えたし、二歩三歩と踏み入れもした。
でも、これはさすがに危険すぎると判断して思いとどまった。
足下の状態がまったく見えないし、ヘビとかに噛まれたらイヤだ。
溝や穴にはまって出られなくなっても、誰も助けに来てくれない。
というわけで、これ以上中の写真はない。
ネットに2014年に撮られた写真があって、その頃はまだここまでではない。
だいぶ雑草は生い茂っているものの、中にも入って行けている。
ただ、その頃からすでに廃社っぽい感じで、それから10年だからこうもなろうものだ。
草が枯れた冬場に行けば中には入れるかもしれないので、機会があれば再訪してみたい。
情報はない
現地での情報が得られないので、あとは史料かネットを頼るしかないのだけど、そのどちらにもこの神社に関する手掛かりは得られなかった。
『寛文村々覚書』(1670年頃)や『尾張徇行記』(1822年)などにこの神社は載っておらず、頼みの綱の瀬戸ペディアにもこの神社に関する記述はない。
いつ誰が建てたのかを推測することも難しい。
江戸時代に御嶽講の人たちが祀ったと考えるのが一番妥当ではあるけど、必ずしもそうとは言い切れない。
深川神社を北の頂点に、山神、石神、秋葉、御嶽、熊野が並んでいる点が一つ。
もう一つはこの神社がある小山を権現山と呼んでいる点だ。
権現山の名称は熊野権現から来ている可能性が高そうではあるのだけど、かつて熊野権現といっていた熊野町の熊野神社は御嶽神社から見て西に600メートル以上離れている。
このひと続きの山全体を権現山といったとも考えられるものの、それだけではないような気もする。
権現というのは何も熊野に限ったものではない。春日も権現だし、秋葉も、蔵王も権現だ。
他にもいろいろな権現がある。家康だって東照大権現だし。
それからすると、熊野権現があったから権現山と呼ばれたのではなく、権現山の名が先だったかもしれない。
そんな重要そうな場所に御嶽が祀られているということは、非常に古い信仰やカミマツリにルーツを持っている可能性もあるということだ。
江戸時代の瀬戸村と変遷
御嶽神社があるのは江戸時代に瀬戸村だったところで、瀬戸村は4つのシマ(集落)に分かれていた。
瀬戸川の北岸に北嶋、南岸に南嶋、その東に郷嶋と洞嶋と呼ばれる4つのシマからなっていた。
御嶽神社のある東権現町あたりは、南嶋の西端あたりになる。
明治以降に新たな窯元が出来たりして集落は南へ、北へと広がっていくことになる。
そのあたりの様子は今昔マップの明治中頃(1888-1898年)で確認できる。
江戸の終わり(明治の始まり)が1868年なので、それから20-30年後の地図になるのだけど、この頃はまだ江戸時代の名残が色濃く残っていただろうと思う。
その後、明治38年(1905年)に瀬戸電気自動車の鉄道が開通して大きく様変わりすることになる。
その様は次の1920年(大正9年)の地図で確認することができる。
御嶽神社があるあたりに絞って見ていくと、明治の地図では手つかずの丘陵地だったのが、大正9年の地図に「窯業學校」という文字が現れる。
これが今の瀬戸工科高校で、私が御嶽神社の場所を教えてもらった学生たちが通う高校だ。
我々の世代だと「瀬戸窯業」の名の方が馴染み深い。
開校は明治28年(1895年)で、正式名は瀬戸陶器学校だった。
昭和23年(1948年)に愛知県立瀬戸窯業高等学校と改称。
当時は全国唯一の窯業高校を称していた。
おそらく全国各地から窯元の子供たちなども通っていたのだと思う。
現在の瀬戸工科高等学校に改称したのは令和3年(2021年)というから、ごく最近のことだ。
今は窯業科だけでなくもう少し幅広い学科があるようだ。
昭和40年代以降はこのあたりにも家が建ち始めるのだけど、瀬戸川沿いや名鉄瀬戸線沿いのようにびっしり埋め尽くされるというほどではなく、まだ手つかずの丘陵地も残っている。
もともとが丘なので坂道だらけで自転車生活は大変そうだ。
このまま朽ちるに任せるのか
近年、神社の廃社問題があちこちで言われるようになっている。
太平洋戦争終戦を機に、神道は国と切り離され、それまで国が管理していた神社はすべて民間へと移った。
紆余曲折を経て神社本庁が誕生したのだけど、戦後のこともあり、権利や登記などがうやむやのままになったところも少なくない。
管理してきた人たちの高齢化と後継者不足で廃社になる神社は今後ますます増えていく。
その際に問題となるのが権利者が不在または不明の場合だ。
宗教法人化はされているものの、権利者が複数だったりするとすべての人に了解をもらわないといけないのにそれが見つからなかったりする。
それで廃社にしたくてもできないことがある。
この御嶽神社の場合はおそらく御嶽教のどこかの講社が管理していたと思うのだけど、御嶽教の講社もだいぶグダグダになっているので、誰がどうするんだと決まらないまま放置されているのではないだろうか。
それなりに規模のある神社なので、取り壊して更地にするには少なくとも数百万以上、現実的には一千万円以上はかかるだろう。
そうなると、ちょっとやそっとの寄付ではまかなえない。
このまま朽ちるに任せることになるのだろうか。
私としては何も出来ないのだけど、一年に一回くらいは様子を見に行った方がいいかもしれない。
何か変化があれば追記でお知らせします。
神社前に放置されたホンダ車。
懐かしい形で90年代あたりのプレリュードかと思ったのだけど、リアが少し違う。
アコードでも、インスパイアでもなさそうだけど、なんだろう。
半ば自然と一体化している。
これが今度どう育っていくかを見るのも楽しみの一つとしたい。
作成日 2024.10.29