
穴田も清玉も由来は不明
読み方 | あなだ-きよたま-いなり-じんじゃ(あなだちょう) |
所在地 | 瀬戸市穴田町 地図 |
創建年 | 不明 |
旧社格・等級等 | 不明 |
祭神 | 不明 |
アクセス | 瀬戸市コミュニティバス「北脇バス停」より徒歩約8分 |
駐車場 | なし |
webサイト | |
例祭・その他 | 不明 |
神紋 | |
オススメ度 | * |
ブログ記事 | 瀬戸市の穴田清玉稲荷神社については何も分からない |
正式名は不明
かつての上水野村、現在の穴田町(あなだちょう)にある稲荷社。
マピオンは「清玉稲荷」、グーグルマップは「穴田清玉稲荷神社」、参道途中の社号標は「清玉稲荷大明神」、鳥居の額は「穴田清玉稲荷」、拝殿(堂)前の石には「穴田稲荷様」とあり、堂に掛かった額は「清玉大神」と書かれている。
全部表記が違う。
どれが正しいのか分からないので、全部入りの穴田清玉稲荷神社としておく。
清玉は「きよたま」だと思うのだけど、確信はない。まさか、「せいぎょく」ではないだろう。
史料にもネットにも情報が何もないので、書けることは少ない。
穴田の由来は?
穴田の集落は上水野村の本郷から少し離れた東にある。
今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見ると本郷との位置関係を把握できる。
もともとの本郷は水野川の北側、今の水北町のあたりだったのが、明和4年(1767年)の洪水で多くの民家が流されてしまったため、川南の上水野新田の方に移っていった。
そのとき穴田の集落はどうだったかについては情報がないのだけど、少なからず影響はあったのではないかと思う。
穴田集落についての情報もないため、詳しいことは分からない。
『尾張徇行記』は上水野村の支邑として曽野と夜床を挙げるのみで、穴田についての記述はない。
穴田の地名は全国に何ヶ所かに残っている。
岡崎市、犬山市、大阪府泉大津市、岡山県高梁市、長野県中野市などにあり、穴田姓もある。
地名はいずれも”あなだ”と濁り、穴田姓も90パーセント以上が”あなだ”だそうだ。
どうして”あなた”ではなく濁るのか不思議に思う。
『和名類聚抄』の下道郡に安奈多郷があるのだけど、これも濁っていたのだろうか。
瀬戸ペディアは「穴田の「穴」は、洞の意味。徳川中期に瀬戸から当地に引越し、窯業を営んだ窯屋があったところから「釜の洞」と呼ばれ、それから起こった地名ともいわれる」と書いているけど、この説はちょっと信じがたい。
穴が洞の意味なら全国的に穴地名だらけになっていそうだけど、穴の付く地名はそれほど多くない。
石垣作りの職業集団として知られる穴太衆(あのうしゅう)も、読み方次第では”あなた”だけど、関係はないだろうか。
穴はうかんむりに八、田は十と口で天のこと、濁るのは写された地名と解釈すると、濁らない穴田の本拠がどこかにあるのかもしれない。
清玉とは?
清玉稲荷の清玉がどこから来ているのかも気になるところだ。
単純に縁起が良さそうな清い玉と名づけたのか、何かゆかりがあるのか。
清玉について考えたりネット検索したりしたけど、思いつくことはなかった。
玉(珠)といえば龍で、稲荷神の使いの狐は珠をくわえていないと思うけどどうだろう。珠をくわえたり持ったりしている狐もいるだろうか。
狛犬代わりの狐像は巻物のようなものをくわえている例が多い気がする。
名古屋の守山区に生玉稲荷神社があり、ここも社名に玉が入っているから、稲荷と玉は何かしらつながりがありそうだ。
玉は魂にもつながる。
穴田古墳群について
清玉稲荷の少し南の210号線(県道中水野・品野線)の北側丘陵地で11基の古墳が見つかっており、穴田古墳群と名づけられた。
昭和40年代の企業団地造成工事の際に照査が行われたものの、大半は破壊されて残っていない(4号墳は保存展示、6号墳は南山中学の校庭に移築復元)。
横穴石室を持つ7世紀半ばから後半にかけての古墳終末期の円墳とされる。
どれも10mほどのもので規模としては小さいながら、知られているだけで11基という数は無視できない。実際はもっと多くあっただろう。
平瓶や蓋抔、高杯片、金環、鉄鏃などが出土している。
7世紀の古墳というとあまり重要視されないのだけど、奈良県明日香のキトラ古墳や高松塚古墳も7世紀のものなので、重要でないということはない。
知られていないもっと古い古墳もあるかもしれないし、穴田は一大古墳エリアだった可能性もある。
清玉稲荷がこれら古墳と関係があるかどうかは分からない。
しかし、これほど古墳が集まっている土地に古い社の一つもなかったとは考えにくい。
穴田集落ができたのはもっと後の時代だったとしても、穴田が古墳密集地だったという認識は持っておくべきだろう。
穴田の変遷
あらためて今昔マップで穴田と周辺の変遷を辿ってみる。
清玉稲荷があるのは穴田集落から少し山に入ったところだ。
この入り口が分かりづらくて同じ道を何度も行ったり来たりしてしまった。住人の人が見ていたら不審者と思っただろう。

まさかここじゃないよねと思いながら入って登っていったら、まさかのここだった。
民家と民家の間の細い隙間のようなところで、なんとしても神社を見つけるんだという強い意志がないと入っていけないくらいの感じだ。
この前の道は旧道の名残だろう。
稲荷の南東に民家が集まっていて、数成川を挟んだ南にもちょっとした集落がある。ここも穴田集落の一部だろうか。
地図は1968-1973年(昭和43-48年)に飛ぶ。
集落の東西を走る県道210号線と、南北をつなぐ県道207号線が整備され、道路沿いに家が増え始めているのが分かる。
未開の山地だった南側が切り開かれて工業団地が建ち、多くの工場、企業を誘致するのは昭和40年代後半以降なのだけど、今昔マップにはそのあたりがあまり反映されていない。
1992-1996年(平成4-8年)の地図に暁工業団地と穴田企業団地が現れるも、工業用地の造成自体は昭和50年代には始まっている。
現在、このあたりの山は採土場ならびに工場地帯となっている。
いつ誰がここに稲荷を祀ったのか
穴田の集落にいつ誰がこの稲荷を祀ったのか?
それを推測するのは難しい。
江戸時代かもしれないし、明治以降かもしれない。
ひょっとすると昭和に入ってからの新しいものという可能性もある。
ただ、小さな祠程度のものではなく、鳥居や石灯籠やお堂もあるので、個人レベルのものではない。
場所を考えても、集落から少し山に入ったところなので、ある程度大がかりな工事が行われたはずだ。
集落の守り神ということであればそうなのだろう。
しかし、それだけではないかもしれないと思わせるのは、近くにある穴田古墳群の存在だ。
もともと古墳に関係する社があって、それが近世に稲荷になったというのは考えられる。
清玉の社名の由来も分からない。
結局何も分からないというのが結論になってしまうのだけど、偶然この神社に辿り着く可能性はほぼないようなところにあるから、こうして紹介できたことだけでも一定の役割は果たせたと思う。
これをきっかけに何か分かることが出てくることを期待したい。
作成日 2025.2.17