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神明社(岩崎)

最初から神明だったのか?

読み方しんめい-しゃ(岩崎)
所在地日進市岩崎町神明5-25 地図
創建年不明(1473年?)
旧社格・等級等十三等級、旧無格社
祭神天照皇大神(アマテラス)
アクセス名鉄バス「岩崎神明」より徒歩約6分
駐車場あり
webサイト
例祭・その他例祭 9月第2日曜日
神紋
オススメ度
ブログ記事

岩崎村について

 岩崎村に古くからあった氏神的な神社なのだけど、明治に村社にならなかったのは白山宮のためだ。
 白山宮が本郷村、藤島村、藤枝村、岩崎村の氏神とされたことで、岩崎の神明社は村社になれなかったのだと思う。

 神社を見ていく前に、まずは岩崎村についてまとめておくことにしたい。

 津田正生は『尾張国地名考』の中で岩崎についてこう書いている。

岩崎村(いはさき) 佐清音 春日井郡に同名あり

 支村二 岩藤 北新田

【近藤利昌日】木郷より岩崎迄四ヶ村はもと一鄕なりとぞ

【山中路紀日】此村のうしろに竹の山とて近邊に比類なき岩山あり其山の尾崎にある村なれば岩崎と名付成べし

【正生考】たけの山は俗語にて嶽の山なるべし

【利日日】竹の山の下に六坊池といふ大池あり又竹の山より荒砥石産る是は地頭渡邊氏より採るを禁む

 岩崎村の”さ”は濁らないこと、本郷から岩崎までの4村はもともと一郷だったこと、岩崎の地名は竹の山が岩山で、村がその先にあったことなどを紹介している。
 しかしながら、岩山の先にあるから岩崎というのはちょっと安易すぎるし地名としてもふさわしくない。
 何か考えがあるわけではないけど、この由来は信じない。もっと別の理由や意味があるはずだ。
 竹の山は今の御岳山のことで、ここで砥石が採れたらしい。岩崎村の地頭だった渡邊家がそれを勝手に採ることを禁じていたようだ。

 岩崎村の様子について『尾張徇行記』(1822年)はこういっている。

此村ハ高針村ヨリ一里ホト行程へタチ街道筋ニアリ、小百姓ハカリニテ軒ヲナラヘタル村立ナリ、竹木少シ、四瀬戸ニ分ル、神明島・西中市場・東中市場・又其東ヲ清水ト云、枝邑ヲ岩藤ト云、本郷ヨリ東ニアリ、是ハ藤島ノ者岩崎へ出ヤシキシタル故カク唱フト也、又北新田ハ岩藤ツツキ山腰ニアリ、民戸処々ニ散在セリ

 この街道というのは現在の県道221号線(岩崎名古屋線)の元になった道で、平針街道などと呼ばれていた。
 道筋については今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見るとよく分かる。
 現住所でいうと、神明と市場に民家が密集している。
 集落の中にはかつて岩崎城があり、この城がこのあたりの中心だったから、岩崎はその城下町でもあっただろうと思う。
 村は神明島、西中市場、東中市場、清水の4つに分かれていたともいっている。
 清水という地名は残っていないようだけど、今昔マップで見ると天白川の東に小さな集落があるからこれがそうかもしれない。現住所でいうと梅ノ木に当たる。
 枝邑(支村)は北新田と岩藤で、岩藤は藤嶋の者が岩崎へ移ったので岩藤と称したといっている。

 順番が逆になったけど、『寛文村々覚書』(1670年頃)を見てみる。

家数 百軒
人数 七百六拾八人
馬 四拾六疋

 家が100軒で村人が768人というのは尾張の中でもかなり大きな村だ。
 馬が46頭もいたらしい。
 枝邑まで含めてかもしれないけど、それにしても家も人も馬も多い。
『尾張徇行記』は「小百姓ハカリ」といっているけど、規模からして何か特別な村だったのではないか。
 少なくとも、現在の日進市の中心は間違いなく岩崎だったといういい方ができる。

岩崎村の神社について

 岩崎村の神社について情報を集めてみる。
『愛知縣神社名鑑』は岩崎の神明社について以下のように書いている。

創建は不明。明治5年据置公許。
同40年12月に熱田社・御鍬社・池鯉鮒社・須佐之男社を合併した。
昭和47年、社殿等を新築した。

 創建が不明ということはたいてい江戸時代以前に遡るということだ。
 明治4年(1871年)に太政官布告「官社以下定額・神官職制等規則」、いわゆる近代社格制度というものが制定され、そのときあらためて神社の格付けが行われた。
 村の中心的な神社は村社とされ、それより広い範囲の中心神社を郷社、更に広い範囲の中心を県社というように定めた。
 岩崎村の神明社は普通であれば村社に格付けされていたところだけど、白山社(白山宮)が岩崎村も含めた郷社に格付けされたので村社にしてもらえなかったのだろう。
 据置公許は言葉の通り、そのまま据え置いて公に認めるという意味だ。
 明治40年の合併(合祀)は、明治政府の神社合祀政策を受けたもので、この時期に国内の神社は整理されて大きく数を減らすことになる。
 一番ひどかったのが三重県で、それまで1万社ほどあったのが一気に1千社にまで減らされてしまった。
 熱田社、御鍬社、池鯉鮒社、須佐之男社はそれぞれ岩崎村にあった社だろうけど、江戸時代の地誌とは顔ぶれが違っていて、ちょっと不思議に思う。

 江戸時代の地誌を年代が古い順に見ていこう。
 まずは『寛文村々覚書』(1670年頃)から。

社 三ヶ所 内 神明 山之神弐社 村中 支配
 社内六反歩 前々除

社 壱ヶ所 白山権現 本郷村祢宜 甚大夫持分
 社内 松林共ニ壱町歩 前々除
 是ハ本郷村・藤島村・藤枝村・岩崎村四ヶ村之氏神也。

 江戸時代前期の時点で神明と山神2社があったことが分かる。
 祢宜はいなかったのか、村中支配になっている。
 前々除(まえまえよけ)なので1608年の備前検地より以前からあったということだ。
 白山権現は今の白山宮のことで、本郷村にあった。
 ここに書いたのは、白山権現が岩崎村にとっても氏神ということを言いたかったためだろう。

 続いて『尾張徇行記』(1822年)を見てみる。

社三ヶ所、覚書ニ神明・山神二社境内六反前々除
庄屋書上ニ当村支配山神三社、境内一ツハ三畝十歩、一ツハ一反一ツハ九畝、イツレモ御除地
八幡祠境内五反六畝御除地、明暦三丁酉年創建スト也

 庄屋の書上には山神3社とあると書いている。
 途中で増えたのかもしれないけど、御除地になっているので古くからあったものかもしれない。
 増えたのは八幡で、明暦3年(1657年)に創建といっている。
 それなら『寛文村々覚書』に載っていてもよさそうだけど、漏れている。

 最後に『尾張志』(1844年)はこうだ。

神明社 白山ノ社 辯才天ノ社 山ノ神ノ社四所 八幡社 天王ノ社二所
 みな岩崎むらにあり

 白山と辯才天と天王社2社が増えていて、山神も4社になっている。
『尾張徇行記』から20年程度でこんなに急に増えるとも思えないのだけど、どうだったのだろう。
 明治に合祀されたのが熱田社、御鍬社、池鯉鮒社、須佐之男社、江戸時代後期にあったのが白山、辯才天、天王社、山神で、合うような合わないような微妙な感じだ。
 須佐之男社は天王社でいいとして、池鯉鮒社は元の辯才天のことなのか違うのか。
 白山と山神4社の行方は分からないし、熱田社や御鍬社はどこから来たのだろう。
 今も残る弁天池は辯才天が祀られていたからそう呼ばれるようになったに違いない。元は六坊池と呼ばれていたようだ。
 何か上手くつながらないもやもや感が残る。

岩崎村の寺について

 岩崎村にあった寺のことも簡単に見ておく。
 大応寺(大應寺)については稲荷社(岩崎)に回すことにして、妙仙寺について少し書いておく。

『寛文村々覚書』はこう書いている。

禅宗 大草村福厳寺末寺 大椿山妙仙寺
 寺内 松林共ニ拾八町歩 備前検除
 右寺中ニ 観音堂 壱宇 寺家 壱軒 慈眼庵

 大草村福厳寺(ふくごんじ)は春日井郡大草村(小牧市大草)にあった(現存)佛心宗の禅寺で、室町時代中期の1476年に大草城城主の西尾式部道永が創建したと伝わる。
 大椿山妙仙寺(みょうせんじ/地図)は岩崎村の東の外れに位置しており、今もそのまま残っている。
 すぐ南にある慈眼寺はかつての慈眼庵が発展したものだろう。

『尾張徇行記』は詳しく書いているので、少し長いけど引用しておく。

妙仙寺 此寺開山来鳳和尚 府志日、号大椿山、曹洞宗属濃州岩村妙伝寺、永正元年若狭守氏清創建之、旧号万年山長松寺、氏清曾祖和泉守氏從法諱号長松寺、龍沢道盛其妻法諱万年寺大岳宗億故以為号、永禄七甲子年移于今地、氏清法諱号妙仙寺椿岩道寿、同妻大椿院永仙妙寿、故以歌今名
塔頭 慈眼菴
覚書ニ、大草村福厳寺末寺大勝山妙仙寺、境内松林共ニ十八町歩備前検除,右寺中ニ観音堂一宇、寺家一軒、慈眼菴
妙仙寺書上ニ、播州加東郡山国村禅宗妙仙寺末寺トアリ、境內三反五飲備前檢除、外ニ境内ツツキ松山四町四方御除地
境内観音堂一宇、創建年曆不知、塔頭慈眼庵ハ寛文五乙己年創建也
当寺昔年今ノ地ヨリ三町ホト北ノ方ニアリテ、万年山長松寺ト号シ何宗トモ不知、後丹羽勘助菩提所トシ、其比ハ兵燹シパシバアリテ艱難タリシ放ニ、今ノ地へ城主二代目同若狭守引移シ、斯人夫婦ノ法名ヲ以テ大椿山妙仙寺ト改号ス、易地ノ草創明応九庚申年仲春也
当寺控田二反十九歩ハ、昔年大檀那丹羽勘助三州へ国替ノ後、暫時岩崎村六人ノ給所トナリ、其給人ヨリ寄附シキタリ、正保三丙戌年渡辺右馬允采地トナリシ後モ、先規ニ任セ寄附セラレ墨附五通アリ
当寺控庚申堂跡一畝年貢地

 要約するのが面倒なので、それぞれお読みくださいといって逃げてしまう。

『尾張名所図会』(1844年)は簡潔にこう書いている。

大椿山妙仙寺(だいちゆんざんめうせんじ) 同村にあり。曹洞宗、美濃岩村妙仙寺末。
 永正元年丹羽若狹守氏清の建立なり。舊號萬年山長松寺といひしを、永祿七年今の號に改む。
 妙仙寺は氏清の法名、大椿院は其室の法腕なり。寺室に丹羽勘助氏次の持ちし大身の鎗あり。

 永正元年は1504年で、丹羽若狹守氏清が建立したというのを信じていいのかどうか。
 丹羽氏清は1485年生まれとされているので、1504年は19歳でしかない。
 本郷城の3代目城主で、岩崎城に移ったのは1538年(天文7年)と伝わる。
 これらを考え合わせると、1504年に丹羽氏清が妙仙寺を建てたというのは無理があるように思う。
 ただ、日進岩崎の丹羽氏が妙仙寺を菩提寺としていたのは墓所があることからも確かで、『尾張徇行記』がいう丹羽勘助(丹羽氏次)が今の地に移したというのは本当かもしれない。
 ”美濃岩村妙仙寺末”とあるのは、丹羽氏が美濃国の岩村に移った際に移され、丹羽氏が播磨国三草藩(兵庫県加東市)に移ったときにも移築され、その後、岩崎村に再建されたという流れのようだ。

岩崎の変遷を辿る

 あらためて今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見てみる。
 神明社があるのは集落の西の外れの街道沿いというのが見て取れる。
 現地に行くと分かるのだけど、ここは少し高台になっている。
 集落中央に大応寺、東に妙仙寺があり、それぞれ村を見下ろせる場所に建っている。
 岩崎城址は集落の中にあって、江戸時代はまだ存在感を示していたのではないかと思う。
 明治になってもここはほとんど手つかずのままだ。

 1920年(大正9年)はまだ大きな変化は見られない。
 地図はずっと飛んで1968-1973年(昭和43-48年)、新道の県道221号線が通され、丘陵地が宅地開発されて民家が増えている。
 1970年代になると開発は更に進み、御岳台団地や芦ヶ廻間団地などが建ち、ベッドダウンとしての性格を強めていくことになる。
 ただ、岩崎より南の天白川沿いは今も広く田んぼが残っており、かつての面影をとどめている。

 町村合併などについて簡単に追っておくと、明治39年(1906年)に岩崎村は香久山村、白山村と合併して日進村が誕生した。
 昭和33年(1958年)の 町制施行で日進村は日進町となり、平成6年(1994年)に日進市となった。
 香久山もそうなのだけど、このあたりは面白い地名(字)が残っている。
 ”ケカチ”や”新ラ田”などがそうで、根裏という気になる地名が飛び地になっていたりもする。

創建は1473年?

神明社の創建について『日進村誌』は、以下のように書いている。

文明五年巳九月創立、元当社は赤池村の氏神なり。丹羽帯刀没落後、岩崎北高上地内の台地にあり。移転年月不詳なり。之を更に現在の処に移し祠る

 初耳のような内容で、どう理解したいいのか分からず戸惑う。
 文明5年は1473年に当たる。
 応仁の乱が始まったのが1467年だからその最中で、主要人物だった山名宗全と細川勝元が死去した年だ。
 岩崎城を築城したのは丹羽氏清ではなく信長の父の織田信秀という話があるのだけど、信秀の生まれは1511年(永正8年)とされるので、それよりも前ということになる。
『日進町誌』は、”根拠は不詳”で、”信憑性は疑わしい”といっているのだけど、内容が具体的で、赤池から移したということでいうと、大応寺も元は赤池にあったという話があるので、その関係も考えられるだろうか。
 それと、赤池は鎌倉時代初期には伊勢の神宮(公式サイト)の荘園だったようで、その関係で神明(天照大神)を祀ったというのもあり得る話だ。

 岩崎集落がいつ頃できたかを推測するのは難しいのだけど、岩崎城古墳や竹ノ山古墳群があることからすると、遅くとも古墳時代には集落ができていただろうし、そうなると社がないはずがなく、赤塚から氏神を移してきたというのは違和感がある。
 古墳時代以前の遺跡は知られていないものの、実際にはもっと古くから人が暮らしていたのではないかとも思う。

 日進の歴史がこの先明らかになることがあるのかどうかは分からないけど、今知られているよりもずっと古くて深い歴史があるように感じる。
 中心的な神社がどうして白山だったのか、何故赤塚が伊勢の神宮の荘園とされたのかなどについても、あらためて考えてみる必要がある。
 御岳山の存在や、岩崎という土地も間違いなく鍵を握っている。

作成日 2025.5.16


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