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稲荷社(岩崎)

大應寺の鎮守?

読み方いなり-しゃ(岩崎)
所在地日進市岩崎町神明 地図
創建年不明
旧社格・等級等
祭神不明
アクセス名鉄バス「六坊」より徒歩約4分
駐車場なし
webサイト
例祭・その他なし
神紋
オススメ度
ブログ記事

情報はない

 結論から書くと、岩崎神明にある稲荷社についての情報はまったく得られなかった。
 大應寺の入り口すぐのところあるので、大應寺の鎮守か何かの可能性が高そうなのだけど、そう断定できるわけではない。
 マピオンに表記はなく、グーグルマップに”お稲荷さん”とある。
 稲荷社ではなくお稲荷さんというのは珍しい。
 現地を訪れても、社号標や鳥居はなく、稲荷と書かれたものもないのだけど、朱塗りの祠と狐の置物からして稲荷だろうというのは分かる。

 というわけなので何も書くことがない。
 とはいえ、これで終わってはあまりにも味気ないので、大應寺について書いておくことにする。
 これがあったので、神明社(岩崎)のところでは書かなかった。

大應寺についてのまとめ

『寛文村々覚書』(1670年頃)はこう書いている。

净土宗 名古屋西蓮寺末寺 松高山大応寺
 寺内五畝歩 前々除

寺屋敷 三反歩 前々除
 是ハ先年寺屋敷、今程、寺無之、右大応寺持分

 山号の松高山は”しょうこうざん”だろうか。
 浄土宗鎮西派で、本尊は阿弥陀如来像だそうだ。
 ”名古屋西蓮寺末寺”の西蓮寺は名古屋城下の東寺町(駿河町東の北側)にあった知恩院の末寺で、もともとは清須御園町にあったものを、名古屋城築城に伴う清須越しでここに移されてきた。
 武田信玄の一族の逞誉祖的(ていよそてき)という僧が信長の娘のために建立したと伝わる。

 続いて『尾張徇行記』(1822年)を読んでみる。

大応寺 府志曰、在岩崎村、号松高山、浄土宗属府下西蓮寺、正保二乙酉年移誓願寺廃跡創建之、以厳誉上人為開山
覚書曰寺内五畝前々除
当寺書上ニ、境内二町四反八畝十九歩御除地、境外田四畝備前検除、畠五畝年貢地、此寺草創年暦ハ不知、僧宗賀永禄元戊午年再建ス、昔時誓願寺ト号セシカ、同三申年今寺号ニ改
当寺控神明祠境内四反三畝十歩御除地
当寺控弁天祠此村六坊新池ノ内小嶋ニアリ、宝永二酉年寺部矦代官ヨリ澄明田ヲ寄附セシト也
薬師堂ノ跡一畝村除、永禄二未年城主丹羽若狭守城内藤トイヘル女創建ス、後廃寺トナリテ、薬師仏ノ像ハ大応寺ニ安置セリ
観音堂境内一反七畝十四歩村除ナリ
覚書ニ、寺屋敷三反前々除、是先年寺屋敷今程寺ハナシ、大応寺持分トアリ、是府志ニ所謂誓願寺ノ廃趾ナルヘシ

『張州府志』(1752年)を引用して正保2年(1645年)に廃寺となった誓願寺の跡に厳誉上人が開山したという話を紹介している。
 しかし、『寛文村々覚書』では前々除になっているので、実際は1608年以前からあったとも考えられる。
 大應寺の書上では創建年は不明で、永禄元年(1558年)に再建したとあるようで、そうなると創建は更に遡ることになる。
 誓願寺跡地に建てたのではなく永禄3年(1561年)に寺号を改めたともいっている。
 大應寺の400メートルほど北にある弁天池はもともと六坊(新)池と呼ばれていたようで、その中の小島に弁天祠があると書いているので、それも大應寺の関係だったかもしれない。
 現在も残っているのかどうか未確認なのだけど、地図を見ると小島は今もあるようだ。
 かつてあった薬師堂は岩崎城主だった丹羽若狭守(氏清)の関係の女性が建てたもので、廃寺になった後、薬師仏を大應寺に移したということも書かれている。
 観音堂が今も残っているのかどうかは把握できていない。

『尾張志』(1844年)も見ておく。

大應寺

岩崎村にありて松高山といふ名古屋西蓮寺の末寺なり創連の年月知かたしといくも永祿元年宗賀といふ僧の再建なり
もとは誓願寺といひしを永祿三年今の寺号とす本堂に阿彌陀佛を安置す又境内に薬師堂金毘羅の社なとあり

 特に新しい情報はないのだけど、境内に薬師堂や金比羅の社などがあるといっている。
 ここでも稲荷に関する情報はない。

 これらを受けた上で『日進町誌』はわりと大胆な推測を書いている。

以上の記述の矛盾を避けながら推論すれば次のようなことであろうか。
誓願寺の跡地で墓地になっていた所を采主渡辺飛騨守より寄進を受け、正保二年に赤池字大応寺より移転してきた。
実質上の再興開山は宗賀であろうが、自らは二世となり、名古屋東寺町西蓮寺の二世巌誉上人白露龍的を勧請開山とした。

なお、この誓願寺跡地は現在地の東南約三〇〇の字大廻間一番地(岩崎交叉点西南角)といわれ、ここから更に現在地へ移ったものと言われている。

 情報元が定かではないのだけど、赤池に字大応寺という地名があり、もともとの大應寺はそこにあったというのだ。
 ”采主渡辺飛騨守”というのは岩崎村地主の渡邊家のことで、誓願寺跡地で墓所だったところを渡邊家から譲り受けて大應寺を建てたというのは寺が所蔵する文政5年(1822年)の由緒書にあるらしい。
 西蓮寺の二世巌誉上人白露龍的を勧請開山としたといったあたりも具体的で信憑性がある。
 誓願寺の跡地は現在地ではなく大廻間というのもそうかもしれない。

大應寺と稲荷の関係は不明

 以上、大應寺についてはある程度把握できたものの、大應寺と稲荷の関係については分からずじまいだった。
 稲荷がある一角はこんもり盛り土のようになっており、古墳を思わせなくもない。
 入り口の石柱には「まこころ道」と刻まれている。
 少し離れたところに「松髙山」と彫られた石柱があり、昭和40年11月とある。

 今のところこれ以上分かることはないかなという気がしている。

作成日 2025.5.17


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