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半僧坊大権現(米野木)

いつ誰が祀った?

読み方はんぞうぼうだいごんげん(こめのき)
所在地日進市米野木町北山50 地図
創建年不明
旧社格・等級等不明
祭神不明
アクセス名鉄バス「三本木」より徒歩約8分
駐車場なし(スペースあり)
webサイト
例祭・その他不明
神紋
オススメ度
ブログ記事日進市米野木の半僧坊大権現はこんな感じ

米野木村柿木集落

 地図上にある半僧坊大権現には鳥居のマークが描かれているので神社ということになるのだろう。
 現地へ出向いてみると、鳥居こそないものの、堂の前には狛犬がいるから、やはり神社のようだ。
 権現というのは、神というのは仏が仮の姿で現れたものとする本地垂迹思想による神号なので、神社なのは当然なのだけど、社名としては決して神社っぽくはない。

 米野木と三本木との間にあって、現住所の柿ノ木島は、かつての米野木柿木から来ている。
 今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見ると、柿木集落の西の外れに祀られていたことが分かる。
 柿木は支村ではなかったようなので、米野木村の枝郷という位置づけだっただろうか。
 半僧坊大権現は、柿木集落が祀ったものだろうと思う。

半僧坊大権現とは

 半僧坊大権現について詳しく知っている人はそれほど多くないのではないか。私もほとんどというかまったく知らなかった。名古屋ではこの名は出てこなかった。

 静岡県浜松市にある臨済宗方広寺(ほうこうじ)の鎮守である奥山大権現半蔵(公式サイト)が総本社ということになるだろうか。
 公式サイトの由緒書にはこうある。少し長いけど、そのまま引用してしまう(読みやすいように改行してます)。

 奥山方広寺の鎮守の神様、「奥山半僧坊大権現」。その縁起については次のような言い伝えがあります。

 方広寺の開祖である無文元選禅師が唐(現在の中国)より船に乗船して帰国の折、東シナ海において台風に遭遇されました。
 風は帆柱を折れよとばか りに吹き荒れ、雨は滝のごとく落ち、波は逆巻いて禅師がお乗りになっている船を今にも飲み込もうとする勢いでした。
 大きく揺れる船のなかで、禅師 は一心に観音経をおよみになっておられました。
 そこに法衣を着て袈裟をまとった、鼻が高く眼光鋭い一人の異人が現れて、「わたしは禅師が正法 を伝え弘められるために、無事に故国に送り申します」と叫び、船頭を指揮し、水夫を励まして無事に嵐の海を渡って博多の港に導いたのでした。
 そして、ここでお姿を消されたといわれます。
 後年禅師が奥山の地に方広寺を開かれた時、再びその異人が姿を現し、「禅師の弟子にしていただきたい」と願い出ました。
 その際、禅師の「汝、半ば僧に似たる所あり」とのお言葉に「我は半僧なり」とご満悦の体で、自他共に「半僧」と称したのだそうです。
 弟子になることを許され、禅師の身の 回りにお仕えしながら修行に励んでおりましたが、禅師が亡くなられた後、「わたしはこの山を護り、このお寺を護り、世の人々の苦しみや災難を除き ましょう」と言って姿を消したそうです。
 以来、この方広寺を護る鎮守さまとして祀られ、世の人々の苦しみや災難を除く権現さまとして、ご信仰を集 めています。

 方広寺の創建は室町時代前期の1371年(建徳2年)で、開基は井伊家一族の奥山朝藤、開山は無文元選とされる。
 半ば僧に似ているから半僧坊というのは話としては面白いけど、後付けかもしれない。
 思想、信仰対象として誕生したのが室町時代というのであれば、それほど古いものではない。
 この半僧坊大権現信仰がどの程度の広がりを見せたのかはよく分からない。
 現在、知られているところとしては、鎌倉の建長寺半僧坊大権現や愛知県高浜市の奥山大権現半蔵、長野県松本市の奥山大権現半蔵などがあるようだ。
 その他にも全国各地に半僧坊大権現にまつわるところがあるのではないかと思う。

米野木の半僧坊大権現は?

 米野木の半僧坊大権現については情報がまったくなくて何も分からない。
『日進町誌』でも触れられていない。
 現地でもこれといった手掛かりは得られなかった。
 少し南に弘法大師堂があるのだけど、そちらとの関係も不明だ。
 地図に載っているくらいだから、もう少し何か分かると思ったけど、現状はお手上げだ。
 何か分かれば追記します。

作成日 2025.6.21


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