MENU

龍神社(諸輪)

召零松と龍神の関係は?

読み方りゅうじん-しゃ(もろわ)
所在地愛知郡東郷町諸輪上鉾41 地図
創建年不明
旧社格・等級等
祭神龍神明王(?)
アクセス東郷町巡回バス「愛知池」より徒歩約9分
駐車場なし
webサイト
例祭・その他不明
神紋
オススメ度
ブログ記事

龍神についての情報はない

 愛知池の西、県道233号線から少し降りていったところにある小さな祠。
 目印となるのは”めこぼれ松”だ。
 マピオンには表記がないものの、グーグルマップには載っている。

 この龍神社について調べたのだけど、まったく情報が得られなかった。
『東郷町誌』にもなく、ネットにもない。
 現地へ行くと、”龍神明王 龍神社”という幟が立っている。
 いつ誰がどこに祀ったのが始まりで、いつここに移されたのか。
 お世話をしている人が知っているかどうか。
 近くにある”めこぼれ松”との関係も不明だ。

めこぼれ松について

 ”めこぼれ松”については現地に以下のように書かれた説明板が立っている。

召零松跡

召零松の由来
尾張藩主徳川義直公が、名古屋城造営(慶長十九年、西暦 六百十四年)の上等一帯に松樹を植え込むに当り適地を物色していたところ、この集落(元尾張国愛知郡諸輪村)の住民が挙って誠実忠貞質実剛健の意気盛んなことを賞でられ、尾張藩城代職高木志摩一言のお声がかりでこの付近一帯の山より松が献上された。
召零松はその際運搬用荷造りの篭目より零れ落ちた松と言い伝えられていた。
昭和五十五年十一月、惜しくも松食虫に害されて枯れた。

 慶長19年は1614年で、名古屋城(公式サイト)の築城は終わっているので、この説明はたぶん正しくない。
 名古屋城は1610年から築城を始めて、1612年には天守などが完成している。
 ネット記事で東郷町について書かれたページがあり、そちらの説明の方が合っているのではないか。

慶長19年(1614)名古屋城造営中に初代尾張藩主徳川義直公が大坂冬の陣へ出陣し、城の工事が中断していました。
このとき城代職高木志摩は、石垣の上に樹木がなく、城内の防備や兵力が外から丸見えであることを危惧し、本丸・深井丸及び土居・石垣の上までの一帯に松の植え込みを決断しました。
諸輪村に数多くの良い松があることがわかり、多くの松が、諸輪の山から掘りとって献上されましたが、その数は数百本と伝えられています。
その際、運搬荷造り用の籠から零れ落ちて根付いたのが「召零松」と言われています。
※ (諸輪村は、徳川義直公の付け家老渡辺半蔵守綱の給地となっています。)

 慶長19年(1614年)の大坂冬の陣に名古屋城主の徳川義直が参戦したのは確かで、留守を預かった城代の高木志摩が防衛と景観のために松を植えた方がいいと思いついたというのはあり得る話だ。もちろん、義直の許可は得ただろう。
 そのときどうして諸輪村が選ばれたのかは分からない。何か理由がありそうな気がする。
 注意書きにある渡辺半蔵守綱は徳川十六神将の一人で、尾張藩の付け家老だったのはその通りなのだけど、それと関係があるのかどうか。
 渡辺半蔵守綱は義直の後見人だったので、大坂の陣では義直を補佐するために付き従った。このときすでに70歳を超えていたのでけっこうすごい。

 諸輪の山の松が選ばれたのは、諸輪の地が渡辺半蔵守綱の給地というだけではなく、特別な地だったためかもしれない。
 召零松の”零”は、おちる、ふる、こぼれるという意味があるのだけど、召零という字にも何かありそうだ。
 石垣のための石は運ぶ途中で落ちると縁起が悪いということでその場に捨て置かれたというのはよくあったそうだ。落ちることは城が落ちることに通じるというのが理由だ。
 このときの松もその可能性はあるのだけど、落ちた松がそのままその場に根付くというのはあり得ないので、誰かが植えたということなのだろう。
 それにしても、この話は何か別の意味がありそうに思えてならない。何かを暗示しているのではないか。
 こういうふうに仕立てられたお話というのはたいてい怪しい。

これは二代目?

 敷地の中に松が一本植わっている。

 めこぼれ松の二代目というか後継の松だろうか。
 特に説明はない。
 もともとのめこぼれ松は説明板にあるように昭和55年に枯れてしまったようだ。
 古い時代ではないから写真は残っているだろうけど、ネット上で見つけることはできなかった。
 東郷町のページには詳しいことが書かれているので引用させていただく。

樹高7.1メートル。地上1mでの主幹の幹回りが3メートル。枝張りは東西25メートル、南北17メートル。
主幹が途中で3つの太い幹に分かれる蟠幹の黒松で威風堂々の容姿は、愛知池堤防を散策する人々の目を惹きつけていた。
昭和53年(1978)5月に町の文化財として天然記念物に指定されましたが、この頃、松くい虫が大量に発生し、松の枯れ死被害が全国的に広がっていました。

「召零松」も生育に影響を受け、殺虫や栄養補給などの処置を試みられましたが、遂に昭和55年11月に枯れ死し、翌年5月 20 日に切断撤去されました。
町では、幹の輪切りを名古屋城造営時の松献納の伝承を物語る現物資料として保存し、後世に残すべく、町の郷土資料館に収蔵しました。
このとき幹の内部には白アリが大量に生息していたことから、「召零松」の枯れ死の原因には、白アリによる浸食も大きな要因の一つであったことが確認されました。

 東郷町の天然記念物になるくらいだから名物としてよく知られていたのだろう。「名城 めこぼれ松」という饅頭というものも作られた。
 白土にある「高砂カレーム」という店で売っているようだ(要予約)。

愛知池ができるまで

 今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見ると、江戸時代から続くこのあたりの様子がある程度分かる。
 もともとのめこぼれ松がここにあったとすれば、県道233号線岩作諸輪線の元になった道沿いということだろう。
 現在の233号線は旧道とは少し道筋が違っている。
 それは愛知池の造成とも関係がある。

 愛知池、正式名東郷調整池は愛知用水の調整池として造られた人工のため池だ。
 今昔マップを見ると、周囲に点在したため池をつないだだけでなく、丘陵地もごっそり削って造られたことが分かる。
 掘り起こした土をどうしたのかは知らないけど、相当大がかりな工事だったに違いない。
 愛知用水は岐阜県加茂郡八百津町から愛知県知多郡南知多町に至る112キロの用水路で、農業、工業、上水道として利用されている。
 完成したのは昭和36年(1961年)で、水不足に悩まされていた知多半島には恵みの水となった。
 ちなみに、名古屋市の水道は木曽川を主な水源としているので水不足や断水というとは無縁でいられる。大都市の中ではもっとも美味しい水道水ではないかと思う。

龍神は不明

 最初に書いたように、龍神社についてはまったく情報が得られず何も分からない。
 めこぼれ松とは無関係な気もするし、ため池近くに祀られていたものを現在地に移したのかもしれない。

 何か分かれば追記するけど、期待できそうにない。

作成日 2025.8.6


HOME 東郷町