ここ則武1丁目の八幡社から見て北西370メートルのところに松原八幡社、その北西150メートルには大秋八幡社があり、東南280メートルのところには水野社がある。 中村区は神社密度が高く、必然的に神社と神社との距離が近い。その分、どの神社がどこに位置しているのかを把握するのが難しい。 かつての村名でいうと、神社があるのは中島村に相当する。そのため、中島八幡社とも呼ばれている。 西に大秋村、東に中野高畑村があって、かつてはそれらの村は一体だったという。
『愛知縣神社名鑑』はこの神社についてこう書いている。 「創建は明かではない。寛政三年(1791)氷室紀長の『若宮旧記』によれば中区末広町の若宮八幡社の境外末社として、この地に鎮座のところ、中島の人々は産土神と崇敬あつく、明治5年村社に列格し、昭和14年5月12日、指定社となる」 1791年は『若宮旧記』が出た年なのか、『若宮旧記』の1791年のところに記録があるという意味なのかよく分からないのだけど、江戸時代に中島村の八幡社は名古屋若宮八幡(若宮八幡社)の境外末社だったということのようだ。松原の八幡社にも同じ話が伝わっている。松原はかつての中野高畑村だ。 更にこれは『愛知縣神社名鑑』には書かれていないのだけど、境内にある由緒書きにはもともと今市場の地にあって、1610年に名古屋城が築城されるときに現在地に移されたとしている。この話は栄生村の八幡社(則武)にも同じ話がある。 これはどう考えたらいいだろうか。 中野高畑村の八幡社と中島村の八幡社が名古屋若宮八幡社の境外末社だったというのはその通りだろう。 しかし、今市場にあったものを名古屋城築城の際に移した八幡というのはどちらなのか。今市場に八幡が二社あった可能性もなくはないけど、ひとつの八幡から分社して栄生村と中島村に二社の八幡を建てたということも考えられるだろうか。 ただし、名古屋城築城以前の様子を描いた絵地図に八幡はない。本来は八幡ではなかったのか、絵地図に描かれない祠程度のものだったのか、そのあたりはよく分からない。 どちらかの八幡の縁起が間違って伝わったのかもしれない。
『寛文村々覚書』(1670年頃)の中島村(中嶋村)を見るとこうなっている。 「八幡壱社 社内壱畝廿歩 前々除 名古屋若宮祢宜 主膳持分」 前々除とあるということは、境内地は1608年に行われた備前検地以前から除地だったということで、この神社がここに建ったのは江戸時代以前という可能性が高い。 一方の栄生村の八幡社(栄生)は社内が年貢地になっており、1610年に移されたという話と矛盾しない。 これだけで決めつけることはできないのだけど、中島村の八幡社は今市場にあったものを1610年に移したのではなく、江戸時代以前に中島村で建てられた神社の可能性が高そうだ。
神社の由緒を無条件に信じてはいけない。疑問に思うことがあれば自分で調べてみることが大切だ。調べた結果、間違っていることもあるし、やっぱり正しかったということもある。 今市場から移されたものではないとすると、この八幡は誰がいつ建てたかということが問題になるわけだけど、それは分からないというのが現状の結論だ。 いずれにしても、400年以上この地で人々を見守り続けてきたということは間違いない。中島の人たちとともにこの神社はあった。それは動かない歴史として確かにここにある。
作成日 2017.5.30(最終更新日 2019.4.24)
|