名古屋市内に諏訪社は6社ある。 諏訪社(相原郷)(緑区)、諏訪社(上小田井)(西区)、諏訪社(中志段味)(守山区)、諏訪社(鳴海町諏訪山)(緑区)、諏訪神社・参拾番神社・吉嶽稲荷神社(中志段味南原)(守山区)、諏訪社(諏訪町)(中村区)。 意外と少ないように思うけど、諏訪からの距離や信州との関係性を考えると逆に多いくらいなのか。 江戸時代まではもう少しあったと思う。 諏訪社は北海道から九州まで、1万数千社、神社本庁に登録していないところをあわせると2万社以上あるというから、全国区の神社ということができる。 祭神のタケミナカタは諏訪の神ではあるけれど、元を辿れば出雲の神だ。
『愛知縣神社名鑑』はこの神社についてこう書いてうる。 「創建は明かではない。『尾張志』に諏訪ノ社日々津村にあり、と。明治六年、据置公許となる」
『寛文村々覚書』(1670年頃)には「諏訪明神 当村祢宜 清大夫持分 社内年貢地」とある。 江戸時代前期にはすでにあったことが分かるものの、境内地が年貢地になっていることからすると、創建は江戸時代以前にはさかのぼらないかもしれない。 ただ、日比津村の天神は『尾張国内神名帳』にある土江天神(土江神社)ではないかという説があり、そうなると日比津の集落は平安時代にはできていた可能性がある。諏訪明神も案外古いのか。
『中村区史』は日比津城の城主の野尻氏は信州出身とされているから、野尻氏が諏訪大社(web)から勧請したという説があると書いている。 日比津城は南北朝時代に野尻氏が築いた城といわれている。城主に野尻掃部という人がいたのが伝わっている。 場所は現在の大円寺(地図)のあたりだという。その北には家老の野尻藤松の栗山城があったとされる。 野尻といえばナウマン象の化石が見つかった野尻湖(地図)が思い浮かぶ。新潟県との県境に近い長野県北部で、同じ信州といっても諏訪湖(地図)からは遠い。 富山県南砺市に野尻という地名があり、土地の豪族だった野尻氏が築いた野尻城(地図)があった。 野尻氏は藤原利仁の後裔の斎藤氏の流れを汲む一族とされ、平安末期には木曾義仲とともに平家と戦った。南北朝時代には越中国守護だった名越時有の子の時兼に従って中先代の乱に参加して大聖寺城の戦いで破れている。 日比津の野尻氏がこれらの勢力とどういう関係にあったのかは分からない。野尻掃部についてもほぼ情報がない。 日比津の諏訪社は日比津城から見て460メートルほど西に位置していた。城の守り神とするには距離も位置もしっくり来ない。 今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見ると、日比津村集落の南西の外れに神社があったことが分かる。江戸時代もそうだっただろう。田んぼのあぜ道の脇に祀られていた感じだ。
『中村区誌』は戦国時代に甲斐の武田氏の落武者がこの地に落ちのびてきて戦死した友の冥福と一族の繁栄を願って諏訪社を勧請したという説を紹介している。 なかなか興味を惹かれる話ではあるけど、落ち武者が神社を勧請するような余裕があっただろうかと考えると疑問が残る。
現在の町名は諏訪町で、昭和22年(1947年)に日比津町の一部より成立した。それ以前は字中諏訪野といっていた。他にも東諏訪野などの字名があり、いずれもこの諏訪社が地名の由来となっている。 日比津村の集落がいつ誕生したかにもよるのだけど、諏訪社の創建は戦国時代あたりと考えるのが妥当に思えるけど、それを裏付ける根拠があるわけではない。 江戸時代に入ってからの創建だとすれば、武田家の落ち武者がこの地に住みついて、その子孫が祀ったというのはあり得る話だ。
本社の左右にある小さな社も、何の神を祀っているのかは分からない。 公園の一角になんとか残されたといった風情で、手入れが行き届いているとはいえない。少し寂しい感じがした。 名古屋の諏訪社は古い創建のものが多く、いずれも歴史を秘めていて現状はよく分からなくなっている。本当に最初から諏訪社だったのかどうかも定かではない。祭神はタケミナカタではなかったかもしれないし、逆にタケミナカタを祀る別の名前の神社だったかもしれない。 日比津村自体がよく分からないので、そこにあった神社も分かりづらい。
作成日 2017.6.4(最終更新日 2019.4.28)
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