この神社の創建についてのいきさつや歴史は『愛知縣神社名鑑』によってだいたい知ることができる。 「町内関係者にして、国家公共のために特別の功績をあげられた人々の偉勲を敬仰し後世悠久に亘りその神徳を崇拝し奉らんと、町内住民並に遺族の切なる願望により、大正六年十月十七日に現在の富田中学校に神社を建立し町費をも以って維持経営されてきた。昭和二十七年五月三十一日一般住民の奉仕により現在地に奉遷し、昭和三十一年富田忠魂社奉賛会を結成基礎を確立昭和三十三年六月十二日富田忠魂社を設立する」
大正6年(1917年)というと、大正3年に始まった第一次世界大戦が行われていた時期に当たる。 翌大正7年に第一次世界大戦が終結までの日本人の戦死者は400人ちょっとだったといわれている。 主戦場が遠いヨーロッパで、日本軍は日英同盟によるイギリスの要請に乗っかって中国進出を図った戦いだった。勝利を伝えるニュースは入ってきても、国内では自国が戦争をしている実感はあまりなかっただろう。 「国家公共のために特別の功績をあげられた人々」というのがどこからどこまでの範囲なのかは分からないのだけど、おそらく日清戦争、日露戦争の戦死者などが中心だったのではないかと思う。町内の人間も戦争に参加したか、戦死したりしたのかもしれない。 2つの戦争での死者数は資料によって違いがあってややはっきりしない。 日清戦争による死者は約1万3,000人とも約1万4,000人ともいい、病死者を含めるかどうかでも変わってくる。 日露戦争の死者は、約8万4,000人とも、約11万8,000人ともいう。
時代的な背景を考えると、大正デモクラシー、普通選挙、婦人参政権運動などといったキーワードが浮かぶ。 文化面でいうと大衆文化が花開いた時期だった。 そんな国家主導から民衆主導へと移り変わる時代に、町内会が遺族とともに建てたのがこの富田忠魂社だ。 神社にはよく忠魂碑などの石碑が建っているけど、こうして独立した神社になっているところは少ない。ここは神社本庁にも登録している。 もともとは現在地のすぐ北の富田中学校の中にあったというから、校庭の片隅にでもあったのだろうか。 移されたのが昭和27年というのは、戦後教育との兼ね合いなどもあったかもしれない。 現在は駐車場の中のようなところあってやや落ち着かないものの、変わらず守られ続けている。
作成日 2017.6.24(最終更新日 2019.6.5)
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