いろいろと分からないことが多い神社だ。 『愛知縣神社名鑑』はこう説明する。 「慶長十五年(1610年)名古屋城築城に際し工事の無事遂行を祈願し尾張藩士岩田藤忠奥州一宮塩竈六所大明神を勧請して、日置古渡両部落の堺、江川と笈瀬川二川の合流地畔に社地を定め奉斎する。築城関係の諸大名の崇敬特に篤く福島正則は手洗盤を寄進した。延宝年間(1673-1680年)尾張藩士松平康久境内を整え社殿を改修する。文化13年(1816年)秋百姓善蔵日置村巾に移し祀る。天保6年(1835年)9月字中田の現在地に遷し同村の氏神として奉祀し昭和5年社殿を改築造営する。昭和11年村社に列格。昭和20年3月の大空襲に遇い境内火の海となる宮司身を挺して防ぐその功績は末世まで讃えられる。境内社に痔病に霊験あらたかな社あり」
まず引っかかったのが岩田藤忠という人物だ。 ここでは尾張藩士としているけど、奥州の武将という話もあり、はっきりしない。 ネットで検索してもこの鹽竈神社絡みで出てくるだけでそれ以外の情報がない。 名古屋城(web)築城に関わったというなら奉行のひとりかと思うとそうではない。 家康が命じた築城の普請奉行は牧長勝、滝川忠征、佐久間征實、山城忠正、村田某の5人、作事奉行は大久保長安、小堀遠州、村上三右衛門、長野友秀、日向正久、原田右衛門、寺西藤左衛門、藤田民部、水谷九左衛門の9名で、岩田藤忠の名前は出てこない。 実際に働いて資金を負担したのは豊臣恩顧の外様大名たちで、家康は20名の大名を指名している。それが以下の顔ぶれだ。 加藤清正、福島正則、寺沢広高、細川忠興、毛利高政、生駒正俊、黒田長政、木下延俊、池田輝政、鍋島勝茂、毛利秀就、加藤嘉明、浅野幸長、田中忠政、山内忠義、竹中重利、稲葉典通、蜂須賀至鎮、金森可重、前田利光。 北国から参加しているのは加賀藩の前田利光だけで、あとは西国大名たちだ(金森可重は飛騨高山藩)。奥州からは呼ばれていない。 岩田藤忠は有力藩の大名というわけではなく、関係のない奥州の武将がわざわざ名古屋までやって来て名古屋城築城を祈願して神社を建てるとも思えない。 では奉行でもない一介の尾張藩士が命じられもしないのに神社を建てて築城が無事に済むようにと願ったというのか。それも違和感がある。
そもそも、何故、鹽竈神社だったのか? 総本社の鹽竈神社(web)は現在の宮城県塩竈市にあり、陸奥国一宮でありながら『延喜式』神名帳(927年)に載っていない式外社という謎を秘めた神社だ。それでいて朝廷から国内最大の祭祀料を与えられている。 祭神が塩土老翁神(シオツチノオジ)、武甕槌神(タケミカヅチ)、経津主神(フツヌシ)とされたのは近世以降のことで、江戸時代は鹽竈六所明神などと称していた。 鹽竈神の正体については諸説あって定かではない。 平安時代前期の『弘仁式』(820年)によると、朝廷は鹽竈神社に一万束の祭祀料を与えたとしている。鹽竈神社以外に祭祀料が与えられたのは伊豆国三島社(三嶋大社/web)の二千束、出羽国月山大物忌社(鳥海山大物忌神社/web)の二千束、淡路国大和大国魂社(大和大国魂神社/web)の八百束のみで、それらはいずれも『延喜式』神名帳に載る官社だ。それに対して鹽竈神社は一万束という破格の祭祀料を与えられながら官社とされず、神階も与えられていない。 つまり、金は与えるけど位は与えないというのが中世における朝廷の鹽竈神社に対するスタンスだった。 その後、武家の時代になると奥州藤原家や伊達家が大事にしたこともあって武家の守り神という性格を強めていく。伊達家当主は代々、大神主を務め、伊達政宗も社殿の造営を行っている。 奈良春日大社(web)の縁起によると、タケミカヅチが最初に下ったのが塩竈で、のちに鹿島(鹿島神宮/web)に移り、奈良にやって来たとしている。タケミカヅチは戦の神だから、もともと鹽竈神は戦の神だったという可能性もある。 鹽竈神社の縁起では、タケミカヅチとフツヌシが東北を平定にやって来たときに案内をしたのがシオツチノオジ(塩土老翁神)で、この地にとどまって製塩技術を伝えたとしている。 戦国時代から江戸時代初期の武士たちにとって鹽竈神とはどういう神として認識されていたのだろうか。 岩田藤忠は、何故、鹽竈神社から鹽竈神に来てもらったのか? 城を築くことと鹽竈神はどこでつながるのだろう?
この鹽竈神、六所明神は家康とのつながりがある。 家康の生まれた岡崎にある六所神社(web)は、徳川家のルーツである松平親氏が奥州の鹽竈神社から勧請して六所明神を祀り、そこから家康の祖父・松平清康が勧請して建てた神社だ。 岡崎で生まれた家康の産土神ということで家康をはじめ、代々徳川家が大事にした。三代将軍・家光も大規模な造営を命じている。 ただし、祭神は猿田彦命(サルタヒコ)、塩土老翁命、事勝国勝長狭命としていて、タケミカヅチとフツヌシは入っていない。 事勝国勝長狭神(ことかつくにかつながさ)はシオツチノオジの別名とされるのだけど、何故二重に入っているのか、ちょっと分からない。 岩田藤忠が鹽竈神社を勧請したのは、家康を意識してのものだった可能性が考えられるだろうか。もしくは、家康が命じたのかもしれない。岩田藤忠が城の普請に関わっていないとするならば、神社関係の部署の藩士だったのか。 少なくとも私的な神社ではなかったはずで、堀川の掘削を担当した福島正則が手水舎の手洗盤を寄進していることからもそれはうかがえる。
もうひとつ分からないのが場所のことだ。 『愛知縣神社名鑑』は、最初に創建されたのは「日置古渡両部落の堺、江川と笈瀬川二川の合流地畔に社地を定め」としている。 江川も笈瀬川も現在はなくなってしまったのだけど、江川は今の江川線のところを流れていた川で、笈瀬川は上流を笈瀬川といい下流を中川と呼んでいた川で今は中川運河となっている。この二川は平行して南へ流れており、合流はしていない。なので「合流地畔に社地を定め」というのはよく分からない。 「日置古渡両部落の堺」というのであれば、現在地から見て300から400メートルくらい南ということになるだろうか。 ただ、そうなると名古屋城(地図)からは3キロ以上離れた南西ということになる。名古屋城築城の無事を祈るには遠すぎるし場所も中途半端な気がする。 公式サイトの由緒では岩田藤忠は奥州国の武将としている。しかし、『愛知縣神社名鑑』もそうなのだけど、奥州国といったものはなく、陸奥国とすべきだ。鹽竈神社は陸奥国一宮で、岩田藤忠も尾張藩士ではないなら陸奥国の武将だったということだろう。江戸時代の藩でいうと伊達家の仙台藩ということになる。
創建の地もおそらく日置村内だったと思うけど、『寛文村々覚書』(1670年)や『尾張徇行記』(1822年)、『尾張志』(1844年)に、鹽竈神社(六所明神)は見当たらない。古渡村の項にもそれらしい神社は載っていない。 「文化13年(1816年)秋百姓善蔵日置村巾に移し祀る」といのも分からない。百姓の善蔵が勝手に神社を移すことができたのだろうか。 日置村巾の正確な場所は分からないのだけど、今の松原あたりか。 それから20年も経たない1835年に現在地に移されたという。誰がどういう理由で移したのかは伝わっていないらしい。
『尾張名所図会』(1844年)は、境内社の無三殿社に関係する話として、このあたりにあった杁(水門)を無三殿閫と呼ぶ由来を紹介している。 「無三殿閫(むさんどのいり) 堀川の西、日置・古渡の境にあり。松平図書康久入道無三は、当時国君の宗室にして、威権俸録ともに盛なりしが、延宝七年養子図書が時に至り、故ありて家名断絶せしかば、無三へ月俸三百口を賜はり、日置の別荘に在りし其側にある故、其名の此杁にのこりて、今も無三殿閫と呼べり」 名称の由来となった松平図書康久入道無三は『愛知縣神社名鑑』にある「尾張藩士松平康久境内を整え社殿を改修する」の松平康久のことだ。 ここにはカッパが棲んでいたという言い伝えがあって、その伝説は、名古屋駅西の椿神明社や須佐之男社のところで書いた。 笈瀬川(おいせがわ)は伊勢の神宮領があったことから御伊勢川と呼ばれ、のちに笈瀬川とされたといい、誰も汚すものがいない清流だったという。 そこにカッパがいて、なんでも橋から川に向かって尻を映すと痔が治るという話が広まり、後に無三殿神として祀るようになったのだとか。 もともとは川の近くにあった無三殿社を昭和に入って鹽竈神社に移した。
以上のようによく分からない神社というのが私の感想であり結論ということになる。 せめて岩田藤忠についてもう少し知ることができれば手がかりになるのだろうけど、それにしても鹽竈神社と名古屋城築城の完成祈願は結びつかない。 ただ、堀川の掘削を担当した福島正則が手洗盤を寄進したということは、名古屋城築城とまったく無関係というわけではないのだろう。
ちなみに、鹽竈(しおがま)の鹽は塩の旧字体で、竈は「かまど」のことだ。かまどというのは今でいうガスコンロのようなもので、竈と釜は別物だ。鹽竈というのは塩を作るために海水を煮る竈(かまど)のことをいうであって、釜のことではない。神社の入り口にある釜のオブジェはちょっと違うんじゃないかなと思った。
作成日 2017.6.27(最終更新日 2019.6.7)
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