JR東海道本線の尾頭橋駅を出てすぐ目の前にこの神社はある。 尾頭橋にあるのに名前が西古渡神社となっていて、ちょっと戸惑う。古渡の中心は堀川を挟んで東の東別院とその西あたりで、名古屋城下になる以前から古渡の地名はあった。遺跡密集エリアであることからしても土地の歴史は古い。 古渡の地名は、かつてこのあたりは入り江で渡り船があったのが埋め立てられて渡し船が廃止になったことから古い渡し場、古渡と呼ばれるようになったという説がある。 津田正生は『尾張国地名考』の中でこう書いている。 「地名正字なり 古といふ言の付きたる地は最初の呼名にあらず。【相傳云(そうでんいわく)】むかしは方端(かたは)の里といふ 正字潟濱なるべしその後、古渡と改まり、後又一女子村と更り今再び古渡とよぶという」 尾頭橋の地名の由来については闇之森八幡社のところで書いた。鎮西八郎こと源為朝の遺児がこのあたりにやってきて尾頭義次を名乗ったことが地名に転じたとされる。 少し付け加えると、尾頭橋は堀川に架かる佐屋街道の通りなのだけど、新橋とも呼ばれていた。それは佐屋街道がかつては違う道筋で、新しい道筋に架けられた橋だったからだ。 かつては東古渡、西古渡という地名があったのだけど、現在は残っていない。
この神社について『愛知縣神社名鑑』はこう書いている。 「創建は寛永十八年(1641)正月、と伝う。昭和12年8月18日、村社に列し、同年10月5日、指定社となる。同月10日、社殿を造営。昭和20年5月17日、空襲により社殿炎上、昭和26年6月28日造営再建す。(神徳)厄除け、疫病除け、火除け」
創建は江戸時代前期の1641年という。場所は現在地の500メートルほど南東の尾頭橋(地図)付近だったようだ。近くに秋葉権現も祀っていたという。 当初は疫病除けのために牛頭天王を祀っていただろう。 明治の神仏分離令を受けて明治6年(1873年)にいったん廃止になった。 しかし明治12年(1879年)に再興された。このとき祭神を須佐之男として須佐之男社か津島社を名乗ったのだと思う。 大正13年(1924年)に秋葉社と合併して現在地の西古渡丁ノ坪に移された。 村社に列格したのが昭和12年8月で、10月には指定村社に昇格している。昭和12年というのは中川区が誕生した年なので、そのあたりも関係しているかもしれない。西古渡神社と改称したのもこのときのことだ。 昭和20年の空襲で焼失したのは、すぐ西にあった名古屋紡績会社が攻撃目標になったせいもある。戦時中ここは軍需工場になっていた。 この紡績工場の跡地に建てられたのがナゴヤ球場だ。昭和23年(1948年)、総木造の中日スタヂアムはこうして誕生した。 西古渡神社が再建されたのはその3年後の昭和26年(1951年)のことだ。
創建は江戸時代前期というのだけど、江戸時代の書にはこの神社に相当するようなものは見つけられなかった。 『寛文村々覚書』(1670年頃)の古渡村の項には「八幡宮 権現 明神」とあるだけで、天王社や秋葉権現などは載っていない。 『尾張志』(1844年)も「榊森社 神明社 八幡社(くらがりのもり)」となっており、見当たらない。 当時は小さな祠程度だったということだろうか。 今昔マップで初めて鳥居マークが現れるのは1968-1973年の地図からなのだけど、昭和12年に指定村社に昇格した頃には神社としての体裁は整っていたのではないかと思う。
尾頭橋にはかつて八幡園遊郭があった。今でもその名残の建物が少し残り、昭和の風情をとどめている。散策したり、写真を撮ったりするにもいい町だ。 そんな町にある神社だから、もう少し社殿などに風情があってもいいのではないかと思うのだけど、戦後復興の中で神社の風情なんてことにまで頭が回らなかったとしても仕方がない。 それにしても、ここがスサノオ・カグツチを祀る神社とは思わなかった。見た目と祭神が合わない神社というのがたまにある。
尾頭橋一帯で毎年7月、中川金魚まつり(web)というお祭りが行われている。今年(2017年)で62回を数えるくらいだから、63回の名古屋まつり(web)と同じくらいの歴史がある。 2日間で5万人を超える人が訪れるというから、このあたりではよく知られた祭りなのだろう。神輿が出たり、ミス金魚がオープンカーでパレードをしたり、阿波踊りが行われたりするらしい。 どうして金魚なんだろうと不思議に思ったら、弥富の金魚業者と組んで金魚を展示したり、金魚神輿を作ったりしたことで金魚まつりの名称が定着したとのことだ。 中川区にはこれといった名物がなく、途中で迷走して、ほたる祭りと名前を変えてホタルを配ったりしたこともあったそうだ。
作成日 2017.7.2(最終更新日 2019.5.21)
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