名古屋駅の表、駅の1番出口から2分ほど歩いた街角に、この小さな神社はある。よくこんなロケーションで生き残ったものだと感心する。 那古野交差点と中央郵便局交差点との間の広い道から少し奥まったところにあって、道行く人たちはほとんど気に留めている様子はない。
江戸時代のこのあたりは、名古屋城の城下町から少しはずれた西で、廣井村と呼ばれていた。名駅1丁目から5丁目のエリアがそれに相当する。 廣井村の氏神は花車の神明社(地図)だった。 現在の社名の迦具土社と祭神の火之迦具土命から江戸時代は秋葉権現を祀る秋葉社だったのではないかと思う。愛宕社という可能性もなくはないか。 『寛文村々覚書』(1670年頃)、『尾張徇行記』(1822年)、『尾張志』(1844年)の廣井村の項にこの神社は載っていない。神社という規模のものではなく当時は祠程度だっただろうか。
『愛知縣神社名鑑』はこう書いている。 「創建は明かではないが、文化六巳年(1809)霜月朔日、の銘のある石柱あり。鎮座当時の物ならんと明治6年、据置公許となる」 1809年が創建年というのは確かにあり得る話だ。江戸時代以前にさかのぼるほど古い社とは思えない。
今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見ると、神社があるあたりは建物が集まっている場所だったことが分かる。ちょうど神社があるあたりに役場のマークがあるから、これは役場の建物かもしれない。 大正時代になるとこのあたりは広井町となり、隙間がないほど家が建ち並んだ。 国鉄の名古屋駅(明治16年開業)は今より少し南の笹島交差点の西にあった。 名古屋駅周辺が本格的に発展するのは昭和12年(1937年)に駅が現在の場所に移転されて以降のことだ。駅の移転に伴って線路も西へずらされた。 第二次大戦の空襲では名古屋駅周辺も大きな被害を受けた。名古屋駅も攻撃目標となり焼けている。 1947年の地図では空白地が目立つ。ただ、迦具土社があるあたりは焼け残ったところだったかもしれない。 戦後は東の通りを市電が走っていた。それも1970年代に廃線となった。 駅ビルのJRセントラルタワーズが建ったのが1999年(平成11年)で、それ以降名古屋駅周辺もずいぶん変わった。 今は2027年のリニア新幹線名古屋駅開業に向けて駅周辺は工事が進んでいる。 200年ほど前までは葦原が広がっていたところがこんなふうになるなんて、誰が想像できただろう。 この先も迦具土社はこの場所で生き残り続けられるだろうか。しぶとく生き延びてほしいと思う。
作成日 2017.7.28(最終更新日 2019.5.2)
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