行ってみるまで寺の中にある稲荷とは思ってなかった。近くをうろついていたら大きなキツネがいて、あ、ここかと分かった。稲荷用の鳥居もあるし、神社と言えなくもない。ただし、稲荷社ではなく稲荷堂ということになる。 大須交差点を南へ門前町通を進み、右手に本願寺名古屋別院(西別院)(web/地図)を見つつ、次の道を東へ入ったところにある。一方通行が多いので、車の場合は東の裏門前町通から行った方がいいと思う。 大きなキツネが出迎えてくれるので前まで行けば見落とすことはない。
お寺の名前を安用寺という。曹洞宗の禅寺だ。 曹洞宗の本山は福井の永平寺(web)と横浜の總持寺(そうじじ/web)だけど、開祖は誰かと訊かれると意外と答えられないかもしれない。 平安時代前期の洞山良价(とうざんりょうかい)だ。 中国禅宗の祖の達磨(だるま)はよく知られている。 安用寺について『尾張志』(1844年)はこう書いている。 「門前町の東側に在て大治山と号し善篤寺の末寺也永禄十一年の春南桂建立して清洲の外町にありしを慶長年中今の所に移せり源敬公瑞龍院君の御代上使来臨の節此寺まて御送迎あらせらるる事なりしゆえに瑞龍院君御直筆にて大治山の額を書下し給ひぬ近年は杉の町御町屋上使の休憩所と定まれり」
もともと清須の外町に建てられた寺で、建立されたのが永禄11年というから西暦では1568年だ。時代的にいうと、織田信長が将軍足利義昭を奉じて上洛したのがこの年だ。 南桂というのは南桂惠泉という人物らしいのだけど、調べても情報がなくてよく分からなかった。 善篤寺は小牧正眼寺の末寺で、もともとは岐阜県竹ケ鼻村にあって、最初は真宗だったらしい。1502年に曹洞宗に改宗し、天文年間(1532-1555年)に清須に移り、更に名古屋城(web)築城に伴う清須越で名古屋城下に移ってきた。 萬松寺(web)、大光寺とあわせて三刹とされ、最盛期は末寺14寺を抱えていたという。安用寺はそのうちのひとつということになる。 善篤寺はその後あれこれあって、今は千種区城山町に移っている。 源敬公は尾張藩初代藩主の義直のことで、瑞龍院君は2代藩主の光友のことだ。 「上使来臨の節此寺まて御送迎あらせらるる事」とあるから、この寺まで上使を送り迎えしていたということだ。 上使(じょうし)というのは文字通り上から来るお使いで、尾張徳川家にとって目上というと将軍家か朝廷しかない。それらの使者をこの寺で迎えたということは、ここが特別な場所だったということなのだろう。 何故この場所のこの寺だったのかはよく分からない。名古屋城三の丸の本町門からも直線距離で2.5キロほど離れていて、決して近いとは言えない。美濃路沿いで、名古屋城と熱田湊の中程ではあるのだけど、ここでなければならなかった理由は思い当たらない。 その他の情報としては、額の大治山の字は光友の直筆で、上使の休憩所は後に杉の町に建てられたということが分かる。
豊福稲荷がいつ建てられたのかは分からない。最初からだったか、清須時代からか、名古屋城下に移ってからなのか。 ここは通称、「手たたき稲荷」と呼ばれている。 参拝者が柏手を打つとどこからともなくキツネがやってきてこちらをじっと見ている。キツネはお稲荷さんの神の使いだ。願い事を聞きに来ているに違いないということで話が広まり、かつては朝から晩まで参拝客が絶えない人気の稲荷だったという。 しかし、寺町だったこのあたりもすっかり都市化が進み、キツネが暮らせるような自然は完全に消えてしまった。そのせいもあるのだろう、手たたきキツネの話は今はほとんど聞かなくなった。この寺のことを調べるまで私も知らなかった。 でも、ちょっといい話としてこの話がこの先も伝わっていくといいなと思う。キツネが出たのは夜中だったという話もあるから、ひょっとすると今でも町が寝静まった深夜にこっそり訪れるとキツネさんが現れるかもしれない。
作成日 2017.8.4(最終更新日 2019.3.10)
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