1610年の名古屋城(web)築城以前からここにあって、その後城下町に飲み込まれた神社のひとつ。現在は大須商店街の一角に鎮座する格好になっている。 赤門交差点の一本北の細い通りを西に入ってすぐにその神社はある。境内に一歩足を踏み入れると、周囲の喧噪が嘘のように遠ざかる。このロケーションでこの空気を閉じ込めておくのはなかなかのものだ。
創建についてははっきりしない。 『愛知縣神社名鑑』はこう書いている。 「古くは、三輪明神と称して永禄年間(1558-1569)小林城主牧与三右ヱ門長清再興し、天保年中(1830-1843年)改築する」 それに対して神社由緒はこういっている。 「元亀年間(1570~1572)奈良桜井三輪町から小林城に移った牧若狭守長清が深く崇敬する生まれ故郷大和三輪山に大物主神を鎮め祭ったと伝えられています」 いやいや、ちょっと待てと思う。牧長清は1570年の2月に死去したとされているのに、その年に奈良の桜井から小林城に移ってきて三輪神社を創建するのは無理だろう。そもそも、牧長清の生まれ故郷が大和の桜井という話はどこから出てきたものなのか?
牧氏は尾張守護・斯波氏の同族で、長清の父・長義は最後の尾張守護・斯波義銀(しばよしかね)の従兄弟に当たる。 戦国時代は織田家との縁が深く、長義は信秀(信長の父)の妹を妻とし、長清は信長の妹を正室にした。 前津小林城を築いたのは父・長義で、1548年頃とされている。 信秀が末森城を築いたことに伴い、鎌倉街道の備えとして築城したのが小林城だった。それまで長義は名古屋市守山区の川村北城(地図)の城主を務めていた。 長清の生まれ年は伝わっていないのだけど、父の長義が小林城を築いたのが1548年で、長清の死没が1570年、長義は川村北城の城主だったという流れからして、長清が奈良の桜井で生まれ育ったとは考えづらい。しかし、そういう話が伝わっているということは、何らかの根拠があるということだろうか。 それにしても没年の1570年に桜井から移ってきて三輪社を勧請して建てたということはないのではないか。 長清は富士山を信仰していたようで、7度登ると誓いを立てて3度までは登ったものの、老齢で登れなくなって残りの4度は富士浅間社の富士塚で登ったことにしたという話が伝わっている。このエピソードからしても、三輪山の神とのつながりは感じられない。各地の山に登るのが好きだったというから、その関係で三輪山の神を祀った可能性もなくはないのか。 大須富士浅間神社や大須春日神社を再興しているので、三輪神社も同じと考えるのが自然だ。『愛知縣神社名鑑』がいうように、三輪神社も創建ではなく再建だったのではないか。
では、いつ誰が創建したかということになる。 江戸時代後期に書かれた『尾張志』(1844年)と『尾張名所図会』(1844年)では見解が分かれている。 『尾張志』は、「三輪社 三輪町にあり大物主神をまつる神名式に大和國城上郡(しきのかみぐん)大物主神社とあるはこの本所なりはしめてここにうつし祭れる年月知がたし」としているのに対し、『尾張名所図会』は、「三輪明神社 清浄寺の南にあり。牧氏の建立なり」とする。 『尾張徇行記』(1822年)も「当村牧長清勧請する」としている。 『尾張徇行記』は小林城の築城も牧長清とし、長清を「愛知郡長湫の人」と書く。長湫(ながくて)は今の愛知県長久手市のことなのだけど、長湫(長久手)に牧長清の足跡は残っているのだろうか。 三輪社は長清ではなく父の長義が小林城築城にあわせて勧請した可能性もあるけど、それにしても牧家と三輪の神とのつながりが見えない。 江戸時代前期(1670年頃)の『寛文村々覚書』では、「前津小林村 社弐ヶ所 春日大明神 おんない明神」となっている。 この「おんない明神」というのが三輪神社のことのようなのだけど、「おんない」とは何なのか。辞書で「おんない」を引くと「恩愛」が出てくる。意味は、愛情のこもった思いやりやなさけ、親子や夫婦など肉親の間の情愛となっている。 勧請したのは三輪の神ではなく別の神で、「おんない」というのはよく分からないのだけど、江戸時代の途中で三輪明神とされたのかもしれない。 『尾張名陽図会』(高力猿猴庵 1756-1831年)や『尾張霊異記』(富永静幽/1856年頃)などは、御神体は苧桶または金の苧桶でで、一説では女体ともいう、と書いている。 苧桶(おおけ)は麻の苧績み作業のとき、より合わせた苧を入れておく桶のことだ。 女体が御神体という話から「おんない明神」と呼ばれたのだろうか。 こういう話が伝わっていることからしても、三輪山の大神神社(web)から大物主を勧請して祀ったといった神社ではないかもしれない。
尾張藩8代藩主の徳川宗勝がこの三輪社を大事にしたようで、1745年に合力米五斗を寄進して、尾張藩は明治維新まで代々続けたという。 宗勝は7代藩主・宗春の後を継いだということもあって、緊縮財政によって藩の立て直しを図った殿様だ。 それにしても『愛知縣神社名鑑』の合力米(こうりょくまい)という表記が引っかかった。一般的に貧しい人を救うためにほどこしで与える米のことをそう呼ぶのだけど、藩から神社に寄進した場合も合力米といったのだろうか。援助米というニュアンスだとしたら、それだけ三輪社が困っていたということか。 「社領は牧氏により三反歩を寄進し」とあるので、牧家がこの神社に関わっていたのは間違いなさそうだ。 天保年中(1830-1843年)の改築のときは尾張藩もいくらかは出しただろう。 尾張藩最後の藩主となった徳川義宜も合祀している。 義宜は父・慶勝の影に隠れてあまり存在感がない殿様だったのだけど、18歳で死去したのも祀られた理由だろうか。 義宜の死後、再び慶勝が藩主に返り咲き、明治を迎えることになる。
境内にある楠に大きな矢がかけられていて、矢場の地名の由来について書かれている。 江戸時代初期、京都の蓮華王院(れんげおういん/三十三間堂/web)では「通し矢」が行われていた。三十三間堂の端から矢を射て何本通せるかという腕比べだ。 1606年に清洲藩主・松平忠吉(家康の四男)の家臣で朝岡平兵衛という人物が100本中51本を射通して「天下一」となったというのが記録に残る最初とされる。 その後、通し矢はエスカレートしていき、ついには一昼夜で何本射通せるかということになり、尾張藩と紀州藩の一騎打ちになっていく。 1668年に紀州藩士・葛西団右衛門が天下一になると、尾張藩も負けてはいられないということで三十三間堂と矢場を作って練習に励み、翌1669年には尾張藩士の星野勘左衛門が10,542本中通し矢8,000本で天下一の称号を得た。 しかし、1686年に紀州藩士の和佐大八郎が総矢数13,053本中通し矢8,133本で抜き返し、それが最高記録として残ることになった。江戸中期以降は通し矢そのものがすたれてしまったようだ。 矢場というのは弓矢の練習場のことで、それがこの近くにあった。矢場町交差点(地図)などに今も地名が残っている。味噌カツで有名な「矢場とん」(web)の矢場もここから来ている。
前津小林城は、矢場町交差点南東あたり(地図)にあったとされる。 長清が死去した後に廃城となり、その跡地に清浄寺(しょうじょうじ)が建てられた。 元禄年間(1688-1704年)に尾張藩2代藩主の光友によってこの地に建てられたという話もあるのだけど、『尾張名所図会』は、「徳寿山清浄寺無量院 前津小林の矢場町(やばまち)にあり。浄土宗、教徒知恩院末。元禄十二年此寺を海東郡津島よりうつして郭龍和尚に給わる」と書いている。 光友は元禄13年(1700年)に死去しているから、『尾張名所図会』の方が正しいように思うのだけどどうだろう。 「柳生兵庫隠居の地 清浄寺の境内なる。此人剣の達人にて」と『尾張名所図会』でも書いているように、尾張柳生の祖で剣の達人として知られた柳生兵庫助の隠居宅がここにあったと伝わっている。 現在は小さな寺として現存していて、矢場地蔵と呼ばれている。
女性宮司さんらしい工夫や気遣いが随所に見られる神社で、webサイトだけでなくTwitter、ブログ、YouTube、instagramで積極的に情報を発信している。 赤い糸と五円玉の縁結びや、なでウサギ(福兎)などもいたりして、女性の参拝者を惹きつける魅力がある。お札やストラップなどもかわいい系のものが多い。 ウサギにゆかりのある神社としては名古屋ではここくらいなので、卯年の新年は特に賑わう。 どうしてウサギかというと、大国主の因幡の白兎の話から来ているのだと思う。 鳥居が三輪鳥居(三ツ鳥居)と呼ばれる珍しいもので、名古屋ではここにしかない。 そもそも、名古屋は大神神社系統の神社が少ないところで、その理由はよく分からない。 訪れる人をもてなし、楽しませようとする姿勢を見せるというのも、現代の神社のひとつのありようだと思う。大須に出向いた際は、ちょっと立ち寄ってみてください。
作成日 2017.8.9(最終更新日 2023.1.3)
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