金山駅南東の沢上交差点から北へ入った路地にある小さな龍神社。周りをラブホテルに囲まれていて、参拝すると本殿の向こうにあるホテルに向かって拝んでいるような格好になり、やや複雑な気分になる。 南の八熊通から鳥居が見えるから、このあたりを通る人なら存在には気づいているかもしれない。
この神社に関する情報はほとんどなく、いつ誰がどういういきさつで建てたのか分からない。 八白龍というのは聞いたことがない。一応、「はちはくりゅう-じんじゃ」と読んだけど、「はちはく-りゅう」かもしれないし、「はち-はくりゅう」かもしれない。もしくは、「はっぱく」か「やしろ」という可能性もある。 八白というと占いの八白土星 (はっぱくどせい)を思い浮かべるけど、ひょっとするとそこから来ているのかと考えたりもした。 九星は古代中国から伝わる民間信仰で、一白・二黒・三碧・四緑・五黄・六白・七赤・八白・九紫の9つがある。 それに木・火・土・金・水の五行や十二支などを組み合わせて、人の運勢や吉兆などを占うのが九星だ。 日本では陰陽道でこれを使っていた。 それによると八白は方位でいうと東北、八卦(はっけ)では艮(ごん/うしとら)になるから、東北の鬼門を守る龍を祀ったということかもしれない。 もしそうだとして、それはどこから見て東北かということだ。この神社から南西方向に辿っていってもめぼしいものはない。熱田神宮(web)は南東だし、高座結御子神社から見ても北北西だ。 もともとここにあって動かしていないとしたら、沢上の集落の中心から見て東北に当たるということか。
今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見ると、北を東海道本線の線路は通っているものの、金山駅はまだない。沢上のあたりは道沿いに家が建ち並んでいるだけで住宅密集地ではなかったようだ。樹林マークが描かれているから、まだ雑木林なども残っていただろう。 大正時代になると、西に鉄道が通って、神社があるあたりも一気に住宅が増えた。 ただ、東側はまだ田んぼが多く残っていて、現在イオンモール熱田がある場所には大きな兵器製造所が建った。後にこのあたり一帯は工場地帯になる。 熱田も第二次大戦の空襲被害が大きかったところなのだけど、沢上は比較的被害が少なかったのかもしれない。1947年の地図を見ると周辺と比べて空白地が少ない。 どの地図にも神社の鳥居マークは描かれず、八白龍神社がいつからここにあったのかは不明としか言えない。
沢上(さわかみ)という地名は江戸時代からあったようだ。 『熱田区史』によると、「寛政年間(1798-1801年)、10戸ばかりの民家ができ、その東に沢の観音堂があった。ここを本沢といい、その上方に位置した地を沢上と名付けた」とのことだ。 沢上町の成立は1939年(昭和14年)で、それ以前は宿亀町だった。宿亀町の地名の由来は調べがつかなかった。 本沢という地名はすでになく、沢上と沢下町が残っている。 江戸時代はこのあたりに沢が流れていたということだろうか。 現在は金山町2丁目という味も素っ気もない町名になってしまった。金山町は昭和14年(1939年)に熱田東町と波寄町の各一部から成立した。
社はふたつ。向かって一番左に八白龍神の石碑があり、中央の社はやや小さめで、向かって右の社の方が大きい。 八白龍が祀られているのが中央なのか右なのかもよく分からない。 少なくとも八白龍以外にもう一柱の神が祀られているということだ。 この神社の創建年代を推測するのは難しい。江戸時代なのか、それ以降なのか。 八白龍神社の正式な読み方が分かればそれがひとつヒントになる。「はっぱく」だとすれば、九星の八白から来ていると考えられるし、八は単に多いという意味で付けただけだとか、いよいよますますという意味の弥=八(八剣宮のように)という可能性もなくはない。 現状よく分からないというのがとりあえずの結論となる。
作成日 2017.8.10(最終更新日 2019.9.3)
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