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植田八幡宮


横地秀綱が植田城の守護神として創建した八幡



植田八幡社太鼓橋と鳥居と拝殿

読み方うえだ-はちまん-ぐう
所在地名古屋市天白区植田西3丁目605 地図
創建年1471年頃(室町時代中期)
旧社格・等級等指定村社・八等級
祭神應神天皇(おうじんてんのう)
アクセス地下鉄鶴舞線「植田駅」から徒歩約7分
駐車場 あり(境内)
その他例祭 10月17日
オススメ度**

 天白区植田にある八幡宮。もともと八幡社と称していたため、社号標などが八幡社となっている。昭和59年(1984年)に八幡社から植田八幡宮に改称した。

 植田はかつての植田村から来ており、「うえだ」と濁る。由来は定かではないのだけど、田植えの植えるではなく上の田んぼという意味の上田から来ているともいう。

 今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見ると、植田村は八幡社の南を東西に走る駿河街道から離れて北の丘陵地の縁にへばりつくように家が集まっているのが見てとれる。この不自然さには理由があって、明和4年(1767年)に駿河街道の南を流れる天白川が大氾濫をして村が浸かってしまった後、北の高台に集落ごと移ったためだ。もともと集落は駿河街道沿いにあった。

 八幡社東を南北に通るのは社街道(猪高街道)で、北にあった高針村や社村と駿河街道を結ぶ旧道だった。この道沿いにある全久寺、泉弥寺、栄久寺も洪水でこの場所に移された。



 植田村にあった神社について江戸期の書にはそれぞれこうある。



『寛文村々覚書』(1670年頃)

「氏神八幡 毎年九月十一日ニ当村より馬ヲ渡ス 社内弐反四畝廿八歩 前々除 当村祢宜 杢太夫持分」

「社四ヶ所 内 神明 八幡 山之神弐社 社内壱反弐拾歩 前々除 同人持分」



『尾張徇行記』(1822年)

「氏神八幡祠 覚書曰(中略) 祠官磯村杢太夫書上ニ、境内松山二反四畝二十八歩御除地、草創ノ由来不詳、天正八庚辰年室賀久太夫再建スト也」

「杢太夫書上ニ、神明祠境内松山九畝、山神一社ハ境内松山一畝、一社ハ境内松山二畝二十歩、倶ニ御除地ナリ」



『尾張志』(1844年)

「八幡社 天正八年室賀久太夫修造す是この村の本居神也 社人磯村木工太夫 神明ノ社 山神ノ社二所 この四社植田むらにあり」



『愛知縣神社名鑑』は植田八幡宮についてこう書いている。

「創建は明かではないが、『尾張志』に”(中略)”と記す。明治5年7月28日、村社に列格する。明治10年1月、字東屋敷の無格社山神社、字中屋敷の無格社山神社、字中屋敷の無格社神明社を境内社に移転合併した。明治21年10月、拝殿を改築、社務所を新造する。明治40年10月26日供進指定社となる。昭和49年11月3日、社殿を近代的構造により造営し、昭和59年8月24日八幡社を植田八幡宮と改称した」



 まとめると、植田村の氏神は八幡で、その他、神明と山神二社があって、明治10年に神明社と山神社二社を移して八幡社の境内社としたということだ。

 すべての神社が前々除になっているから1608年の備前検地以前からあったということになる。

 八幡は天正8年(1580年)に再建したとあるので、創建がそれ以前なのは間違いない。

 再建者の室賀久太夫の名前にピンと来たらそれは戦国時代に詳しい人だ。



 室町時代中期の1470年頃、遠江の国衆(現在の静岡県菊川市)だった横地一族の横地秀綱がこの地にやってきて、植田城を築くとともに八幡社を創建したとされる。

 横地秀綱を遠江横地城主14代目とし、今川義忠(義元の祖父)によって城が攻め落とされたためこの地にやってきたとする説があるが、14代目は横地秀国で、横地城落城は1476年だから、その説は正しくないと思われる。

 秀綱と秀国がどういう関係にあったのかは不明ながら、秀綱がこの地にやってきたのは、室町幕府8代将軍・足利義政の命だったというから、秀綱が重要な人物、もしくは有能な人物だったということだろう。

 1470年といえば、1467年に始まった応仁の乱が京都から全国に飛び火して泥沼化している時代で、義政の後継者争いもその要因のひとつだった。

 植田城は現在の郷藪公園(地図)のあたりにあったと考えられている。植田八幡社から見て東南約200メートルほどの場所だ。

『尾張徇行記』には「古城跡一区、覚書ニ昔時横地越後守居城ノ由、今ハ百姓屋敷ニナル 府志曰、植田城土人伝曰、横地越後守居之、今為民家也 街道北ノ傍ニアリ今田畝トナル」とあるから、伝承地として残っていたものの江戸時代には農家と田んぼになっていたようだ。



 植田八幡宮は、植田八幡社古墳と呼ばれる全長80メートルほどの前方後円墳の上にある。昭和49年(1974年)、神社の大改修を行ったときに大部分を削り取ってしまって原形をとどめていない。

 古墳時代中期というから6世紀だろうか。80メートルというと東海地方ではかなり大きな部類で、一説によると埋葬者は尾張針名根命(おはりはりなねむらじ)の可能性があるという。

 尾張氏の祖とされる天火明命(アメノホアカリ)の十四世孫で、タケイナダネ(建稲種命)の孫に当たる。同じ天白区にある式内社の針名神社や犬山市の式内社・針綱神社(web)に祀られている重要人物だ。

 もしそれが本当だとすれば、その意味は小さくない。高針、平針の地と尾張氏の関係を知る上で手がかりとなり得る事実だ。

 ほとんど調査もされないまま破壊されてしまったのは惜しいことをした。



 横地氏のルーツは、源八幡太郎義家の落し子、横地家永に始まるとされる(豪族・相良氏の娘との間にできた庶子)。

 鎌倉時代には幕府の御家人となり、室町時代には遠江の一部を支配する国衆となっていた。

 NHK大河ドラマ「おんな城主 直虎」(web)の井伊家があったのは浜名湖の北、西遠江の井伊谷(いいのや)で、横地氏の横地城は東遠江の菊川なので直接対決はなかったと思われる。ただ、どちらも今川、武田、徳川といった大名家によって翻弄されたということでは共通点がある。

 源氏の流れを汲む横地氏が自分の城や領民の守護神として八幡神を祀ったのは自然なことだ。

 全久寺も秀綱によって1471年に建てられたと伝わっている。

 戦国時代の1580年。信濃の小県郡(ちいさがたぐん)の国衆だった室賀正武が真田昌幸に殺され(NHK大河ドラマ「真田丸」(web)で描かれた)、息子の久太夫(きゅうだゆう)はつてを頼って植田城にやってきた。

 その久太夫が八幡を修繕したというのは、こういう流れだった。

 久太夫のとりなしによって横地氏は徳川方につくことになり、貢献が認められ、江戸時代を通じて植田村は年貢を納めること以外の雑役(工事などに借り出されること)を免除された。

 それを感謝して、八幡には初代城主の秀綱と横地権蔵(権蔵は代々城主が名乗った名前)が合祀されることになった。

 久太夫は出世して尾張藩士となり、横地家は郷士(下級武士資格の農民)となってこの地に土着したという。



 社殿などはほとんどが戦後に建て替えられたもので見所はないものの、フォトジェニックで写真写りがいい神社だ。

 カラリと乾いた空気感で明るく、古墳の上に乗っているとは思えない。現代の街並みとの段差が少ないというか、歴史を重ねながら現代という時代に上手く溶け込んでいる神社という印象を受けた。



作成日 2018.2.15(最終更新日 2019.2.1)


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