熱田神宮(web)の南、境内地のすぐ外にある神社で、細い道を隔てているだけなので熱田神宮の関係神社のようにも思える。 新宮坂神社の新宮坂は、熱田神宮内にある南新宮社の南の坂道を新宮坂と呼んだことから来ている。 神社本庁に加盟しておらず、江戸時代の書にも載っていないため、創建年、祭神など詳しいことは分からない。 かつてこのあたりは喜見寺の境内だったようだから、寺の中の社だったかもしれない。 『尾張志』(1844年)は喜見寺についてこう書いている。 「布曝女町にありて雲龍山春養院と号す京都智積院の直末也弘治二年加藤隼人入道全朔建立して権大僧都堯瑜を開山とす本尊十一面観音は弘法大師の作脇檀に安置の不動明王も同作なり舊は境内も廣く僧坊六區ありて春養院吉祥房慈眼院延命院甚光院寶泉坊といひしがことことく荒廃して其地名のみ六區といふ稱残りしを寛文七年僧良招再興してわつかの堂宇をとり建智積院の末寺とすかの六坊のうち春養院一宇残りて當寺の院号となる境内の大師の井は空海法師の穿ちたる名泉なりとそ」 喜見寺については『尾張名所図会』(1844年)や『名古屋市史 社寺編』(大正4年/1915年)でも触れているのだけど、鎮守社についての記述はなく、新宮坂神社との関係は不明。 喜見寺(地図)は現存するものの、新宮坂神社の南で小さくなってしまった。
江戸時代に描かれた絵図や古地図を見ると、熱田社本社の南に八劔社が独立してあり、道一本隔てて東に、北から南新宮社、大福田社、日割社が並んでいたのが分かる。日割社の東隣に喜見寺と秋葉山圓通寺(web)があった。 新宮坂神社に相当するような社は見つけられない。 最初から新宮坂神社といっていたのか、そうではないのかも分からない。調査はここで手詰まりとなった。
『尾張名所図会』に描かれた熱田社を見ると、ざっと数えて50社ほどの境内社がある。現在の熱田神宮も境内社はたくさんあるけど、そこまでではない。江戸時代でもすでに廃社になってしまった社がたくさんあったようだから、中世まではもっとあったということだ。 神仏習合時代は神宮寺もあって、そこには五重塔や多宝塔もあった。神宮寺も明治の神仏分離令で取り壊れて残っていない。 残った社と残らなかった社の差や違いが何だったのかは今となっては分からない。ただ、消えていった社がたくさんあることを認識しておくことは大切かもしれない。
作成日 2017.8.18(最終更新日 2019.9.6)
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