かつての富江町、今の伝馬1丁目にある笹社。 旧東海道から少し南に入ったところにあるのだけど、かつて鈴之御前社がここにあったという話がある。鈴之御前社は、熱田社へ行く人の祓所だった社で、この場所ではその役割を果たせないと思うのだけどどうなんだろう。 今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見ると、江戸時代の宮宿だったところで、東海道筋からは南に入ったところで、熱田社(熱田神宮/web)の表参道からも東に入ったところに当たる。どちらから熱田社に向かうにも通り沿いではない。 鈴之御前社が祓所だった時代は、精進川のほとりの東海道に面した場所にあった。裁断橋を渡ってすぐ右手で、正覚寺の東隣だ。この頃、精進川(現在は新堀川)は今よりも北を流れていた。 『尾張徇行記』(1822年)はこう書いている。 「鈴宮址 一間四方小岡ニ梅竹茂リタル一塢ニ、叢祠一宇其中ニ円石一ツアリ、ココハ昔時大森伊左衛門先祖宅址ノ由イヒ伝フレトモ由来不詳、只鈴ノ宮旧址ノ由申伝フルノミ」 大森伊左衛門の先祖の家がここにあって、鈴宮の跡地という言い伝えがあるということだ。 『愛知縣神社名鑑』はこの神社についてこう書く。 「創建は明かではない。この地は元御前社(伝馬町四丁目)の跡地という。明治五年、村社に列格した。例祭には笹に小さなお福の面をつけたものを参拝者に授けたという」 鈴之御前社は戦後に現在の伝馬2丁目に移されている。
笹社の成り立ちについてはよく分からない。鈴之御前社の旧地かどうかは別にしても、祭神を鈴之御前社も笹社も天宇受売命(アメノウズメ)としているから無関係ではなさそうだ。 例祭のとき「笹に小さなお福の面をつけたもの」を参拝者に授けたとあるのは見逃させない。 「お福」は「おかめ(亀)」といった方が通りがいいだろう。おかめ、ひょっとこの面のあのおかめがおふくだ。 おかめ、ひょっとこは近世になってからとされるも、古くから狂言や能の面として使われた。 このルーツがアメノウズメだという。アマテラスの天の岩戸隠れのときに裸踊りをしたという話があると同時に滑稽な踊りを踊って神たちが笑って、それが気になったアマテラスが外を見たくなって扉を開いたともいわれる。 おふく(おかめ)が醜い女性の代名詞のようになるのはずっと後年のことだ。 おふくは「福」ということで縁起物にも採用された。今でも酉の市の大熊手の中心はおふくの面になっている。 笹もまた神道では神聖さや清浄さを表すものとしてよく用いられる。湯立て神事では昔も今も笹がよく使われる。 大阪の今宮戎神社(いまみやえびすじんじゃ/web)で行われる十日戎(とおかえびす)で配られる福笹(ふくざさ)なども関西ではお馴染みだろう。 笹社の例祭がいつからそのような様式になったかは分からないけど、笹におふくの面をつけたものを配ったというのは、それらに類するものだったということだろう。 そうであれば、祭神がアメノウズメというのは納得できる。祓所だった鈴之御前社の祭神がアメノウズメというのは、もうひとつしっくりこない。 笹社の名前は、神事で笹を配っていたからか、もしくは笹がたくさんある社ということからか、そのどちらかと考えていいだろうか。
特殊神事として「歩射神事(ほしゃしんじ)」が行われると『愛知縣神社名鑑』は書いている(情報が古いので今も続いているかどうかは把握できていない)。 これは熱田神宮でも行われている神事だ(web)。 毎年1月15日、大きな的に向かって六人の射手(いて)が矢を放って五穀豊穣と無病息災を祈るというものだ。 大的の千木(木片)は魔除けのお守りになるということで、最後の矢が放たれると見物人は一斉に的に向かって駆けだし、千木を奪い合う。 『尾張名所図会』(1844年)にもこの神事の様子が絵で描かれている。 二十五軒橋を渡った先に鳥居があり、鳥居をくぐったところに的が置かれている。かつてはここが参道だったようで、その先に海蔵門がある。その中程のところで射手は矢を放ったようだ。 御的射神事(おんまといのじんじ)として次のように書いている。 「海蔵門外に六尺餘の大的を出し、射人は神官二人、中﨟(ちうらふ)二人、祝部(いはひべ)二人、總て六人なり。此日大宮司を始め己下の社人出仕し、まず魔津星の祝義、及び開闔大夫(かいかふたいふ)、荒木の弓に紙にて矧ぎたる白羽の矢をつがひて、天に一筋、地に一筋、的に一筋(天地人を表す)、射發つの式あり。其後御的射を始む。厳重にして故實多し」 1月19日の例祭として「鈴宮的射 東脇中町にて勤む」とあるので、鈴宮でも歩射神事が行われたようだ。
笹社の中に南楠社という社があり、これは熱田神宮の境外末社となっている。 南楠社はかつて大楠があり、ミヤズヒメ(宮簀媛命)が草薙剣を熱田で祀るために火上から来て、その楠の下で休んだという伝説を持つ。 天王社は熱田神宮内にある南新宮社の末社だ。 このように笹社は熱田神宮と深い関わりがある。
境内入り口に中村宗十郎誕生地という説明板が立っている。 熱田の風呂屋の息子で、のちに歌舞伎役者として大成功を収めた人物だ。 生まれは江戸末期の1835年。本名を藤井重兵衛(ふじいしげべえ)という。 幼い頃から芸事が好きで、17歳で家を飛び出して田舎回りの旅の一座に加わり役者の道に進んだ。 大坂の芝居関係者の目に止まり大坂へ出て二代目中村翫雀の門人となった。 最初は三味線弾きと組んで道ばたで稼ぎ、やがて実力が認められ、四代目三桝大五郎の婿養子となり歌舞伎役者となった。 明治に入って才能が開花し、花形役者として道頓堀で大活躍するまでになる。 しかし、役者仲間とたびたびもめ事を起こし、江戸へ出て芽が出ず、いったん役者を廃業してまた復帰したりと、その役者人生はなかなか波乱に富んでいたようだ。 現在では名古屋でも中村宗十郎の名を知る人は少ないだろうけど、熱田出身のそんな歌舞伎役者がいたことを知っておくのも悪くない。歌舞伎の一門以外の出身でここまで成功を収めた人物は他にいないのではないか。
鈴之御前社、笹社、アメノウズメ、熱田社。これらはどこかでつながっている。その関連性が見えたとき、初めて個々の神社についても理解できるだろう。今はまだ、見えそうで見えない。
作成日 2017.8.21(最終更新日 2019.9.7)
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