なんだかすごいロケーションにある神社だ。住宅街の中にあって両隣と背後を民家に囲まれている。社殿のあるところはブロック塀で囲っているものの、なんだか晒され感が強い。引っ越しの途中のような雰囲気もあって、なんというかこの場に馴染んでいない感じがする。 しかし、近年ここに移されてきたのかと思うとそうではなく、元々寺の中にあったものが、寺だけ引っ越して神社は残ったということらしい。
『愛知縣神社名鑑』はこう書く。 「社伝に、文保元年(1317)熱田幡屋村金宝山地蔵院山門守護神として勧請せられた。天正四年(1576)地蔵院は熱田田中村に移ったがそのまま鎮座した。寛永十年(1633)地蔵院の支配を離れて木之免町の氏神となった。明治5年、村社に列格した」 鎌倉時代末に創建されたというからなかなか古い。全然そんな古社には見えないのだけど。 金宝山地蔵院を守護する目的で白山権現を祀る社を三門守護神として置いたということのようだ。 戦国時代の1576年に熱田の田中村に地蔵院は移され、白山権現は残った。 江戸時代前期の1633年には地蔵院から完全に独立して木之免町の氏神となったという流れだ。
しかし、『尾張名所図会』(1844年)の地蔵院の項を見ると「鎮守 白山権現」とあるので戸惑う。 『愛知縣神社名鑑』の説明では、戦国時代に地蔵院は田中に移り、白山権現はそのまま残って江戸時代の1633年には地蔵院から独立して木之免町の氏神となったといっているのに、江戸時代後期に書かれた『尾張名所図会』では白山権現は地蔵院の鎮守となっている。 考えられるとすれば、白山権現は旧地と地蔵院の両方で祀ったということだろうか。 しかし、『名古屋市史 社寺編』(大正4年/1915年)を読むと更に混乱する。 それによると、勧請の年月は不明ながら最初、松岡神社の境内にあって、寛永10年(1633年)に今の場所に移されたというのだ。 地蔵院が鎮守として祀ったのが始まりという話とまったく違うこの話をどう受け止めればいいのか。 松岡神社といえば、ヤマトタケルの東征に従って活躍した尾治多那久摩連命が筑波山の麓で戦死したため、子孫の松岡氏が尾治多那久摩連命を祀るために建てた神社ということになっている。白山権現との関わりは見えてこない。 更に不思議な話が続く。 「初め地蔵院の支配に属せしが移轉以降當町の氏神となす。以降猶同院の關渉ありしが如し、元禄年中改めて同町持とせらる、文政七年閏八月、同院より先權回復の訴訟を提起せしかど、敗訴となれり」 ここでいう初めというのは松岡神社にあった頃のことをいっているのだろうか。その頃は地蔵院の支配だったのが、今の地に移転したあとは町の支配になったにも関わらず地蔵院が干渉してきて、元禄年中(1688-1704年)にあらためて町の持分となった。しかし、あきらめきれなかった地蔵院は文政7年(1824年)に訴訟を起こして敗訴したというのだ。 これは本当の話だろうか。もし本当だとしたら、白山権現を巡って地蔵院と町が200年近くも取り合いをしていたということになる。当人たちにとっては笑い事ではなかっただろうけど、なんだか笑える話だ。
『尾張名所図会』の「圓福寺」の絵の中に地蔵院が小さく描かれている。 地蔵院は、熱田の祭主、牧権太夫奉忠(ともただ)の後室(未亡人)が1317年に開山したと伝わる寺だ。最初、亀命寺と号し、文和年間(1352年-1355年)に地蔵院に改めたとされる。 牧奉忠は鎌倉殿(鎌倉幕府の棟梁)ともゆかりがあったということもあり、一時は大伽藍を持つ寺院だったようだけど、戦国時代に荒廃し、1576年に今の場所に移して再興したという。
神社がある木之免町(きのめちょう)は、江戸時代に干拓によって作られた土地だ。 地名としては江戸時代からのもので、木ノ免町や木ノ目町とも表記した。 熱田社の祝詞師である田島丹波に与えられ、熱田社の神事に使う薪を納める任を負っていたのだけど、1688年(元禄元年)の検地以降、薪に代わって米12石を納めることとなり、木を免除するということで木ノ免町と呼ばれるようになったという。 後付けっぽい話なので、本当の由来は違っているかもしれない。
中央、一段高くなっているところにある大きめの社が白山社だろうけど、左右にある小さな社は分からない。 石灯籠が狭い間隔で置かれているのと、狛犬に網を被せている理由もよく分からない。以前はもっと広い社地だったのではないかと思う。 見た目にも変わった白山社だったけど、エピソードが独特で記憶に残る。
作成日 2017.8.22(最終更新日 2019.9.8)
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