八王子神社のある村雲(むらくも)、御器所(ごきそ)は瑞穂台地(御器所台地)の西に当たり、古くは熱田社(熱田神宮/web)と入り海を隔てて東側という位置関係だった。 入り海は今の新堀川(かつての精進川)の東を上前津、鶴舞あたりまで深く入り込んでいたと考えられている。 それが次第に陸地化することで人が住むようになった。村雲一帯では複数の竪穴式住居跡が見つかっており、北には4世紀末から5世紀前半の八幡山古墳(円墳)がある。南に下った瑞穂区では同じく4世紀末から5世紀にかけて八高古墳や高田古墳などの前方後円墳が造られた。 熱田の断夫山古墳や白鳥古墳は6世紀前半と考えられているので、瑞穂台地の古墳はそれより古いということになる。 御器所の地名は、熱田社の祭祀に使う土器を納めていたことから名付けられたという説がある。 村雲の地名も古く、かつては叢雲と表記していた。これは草薙剣が名前を変える前の天叢雲剱(あめのむらくものつるぎ)から来ているともされる。 少し南に行った瑞穂区には御劔小学校(みつるぎしょがっこう)もあり、瑞穂台地一帯に熱田社の影響が見てとれる。 昭和区の中心的神社である御器所八幡宮(地図)は、かつては八所明神と称する神社で、9世紀初めに熱田社の鬼門を守るために仁明天皇の勅命で建てられたという話もある。
八王子神社は、村雲小学校のすぐ北にある。 御器所小学校の前身である叢雲学校は明治6年(1873年)に御器所八幡宮の南に創立され、その後、御器所尋常小学校となり、明治45年に現在地(地図)に移った。そこはかつて天神森と呼ばれた森だった。 村雲尋常小学校が分校として独立したのは昭和8年(1933年)のことだ。 八王子神社は、一時御器所八幡宮に移されて、その後、村人の希望で明治の末頃に再建されたという。 村雲尋常小学校ができたのが昭和8年だから、神社の再建が先ということになる。 かつてはこのあたりも榊(さかき)や楠(くすのき)、欅(けやき)が生い茂る森で、熱田社に榊を奉納していたことから榊森とも呼ばれていたという。榊森といえば、中区金山の榊森白山社(地図)にも同じような話が伝わっている。
『尾張志』(1844年)の御器所村の項を見るとこうなっている。 「縣ノ社 八幡社より西の方にあり 八王子ノ神を祭るといへり 天神社 祭神詳ならす 氷上社 白山社 祭神は須原ノ神也といふ 八幡社 此地古墳の形勢なり祭神定かならす 春日社 祭神天兒屋根ノ命也といふこの境内に天神稲荷相殿の社あり 村神ノ社 祭神定かならす」
江戸時代は縣社(あがたのやしろ)と呼ばれていたようだ。 縣(あがた)というのは古い時代でいうと大和政権の直轄地や国造(くにのみやつこ)の支配下にある土地のことを指した。縣主というと、その長ということだ。 この神社は相当古いかもしれない。 祭神の八王子については何とも言えない。牛頭天王と頗梨采女(はりさいじょ)との間の8人の王子(眷属神)のことという可能性もあるけど、縣主という神社名からすると違うようにも思う。八王子を祀るとしたのは江戸時代に入ってからとも考えられる。
昭和20年の空襲でこのあたり一帯も焼け野原になった。しかし、この神社だけは焼けずに残ったという。 今も村雲小学校の北にあって子供や学校を守っているといえそうだ。
作成日 2017.8.28(最終更新日 2019.3.16)
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