天神社を名乗って菅原道真を祀っているというのだけど、見た感じも雰囲気も天満宮らしさはない。天満宮らしさといえば牛の像がいるくらいだ。 そもそもこの神社は眞好社だった。御神体は石で、おどり山の上にあったものだ。 『愛知縣神社名鑑』はこう書いている。 「創建由緒については明かではない。明治5年8月27日、村社に列格する。昭和58年12月27日に眞好社を眞好天神社を改称し祭神を菅原道真と明らかにした」 祭神を菅原道真と「明らかにした」のが昭和58年だというのだ。誰が明らかにしたのか? 『瑞穂区の歴史』によると、天保年間(1830-1844年)にはおどり山に祀っていたものを明治2年(1869年)に現在地に移したという。 もう少し詳しい話として、おどり山の山頂に石を御神体として祀っていたところ、誰かの夢の中で石を現在の場所に移すようにというお告げがあったため、関係者が今の場所に移して祀るようになったのだという。 菅原道真を祀るとしたのは昭和11年(1936年)という話もある。 かつての字名の天神は、この神社から来ていると思われる。
おどり山は、現在地から見て600メートルほど東北にある(地図)。住所でいうと村上二丁目だ。 おどり山は、おどり山古墳と名付けられた5世紀後半の円墳で、高さ3.6メートル、直径40メートルというから尾張では中型の円墳ということになる。 おどり山の他、まごく山、大殿山(おとどやま)などとも呼ばれたという。 おどり山の由来について『瑞穂区の歴史』は、かつては村境によくあった神送り場から来ているとしている。 まごく山は谷間の意味があるとも書いている。間谷=まごく、ということか。 この古墳の上に石を祀っていたというのであれば、それは自然石ではなく石室に使われた石が露出したものかもしれない。どれくらいの大きさの石だったのだろう。 石を御神体として祀るようになった時期は分からない。天保年間といえば江戸時代ももう後半だ。少し遅い気もするけど、そのとき古墳から出てきたということだろうか。 おどり山古墳からは須恵器や埴輪円筒などが出土した他、周濠や葺石が確認されたものの、昭和に入って宅地造成や神社造営の際に削られて原形をとどめていない。 御神体の石が移されたあと、住人によって村上神社が創建された。
移されてきた現在の場所もまた、小高い丘になっている。ここも古墳ではないのかと思うのだけど、古墳とはされていない。 夢のお告げ云々というのは置いておくとして、何故、古墳の上にあった石を別の場所に移す必要があったのかということを考えてみると、明治2年という時期と無関係ではなさそうだ。 明治元年(1868年)に明治政府が出した神仏分離令(神仏判然令)によって寺と神社は分けられ、同時に廃寺、廃社となったものがたくさんある。おどり山で祀っていた石がその対象となったとしたら、なんとか存続させるために神社としての体裁を整える必要に迫られたのではないか。場所を移したのも政府の目を誤魔化すためだったかもしれない。 ただ、明治5年には村社に列格しているくらいだから、私が考えている以上に立派な神社で氏子も多かったということだろうか。 実際に夢のお告げがあって、石に宿る神が自らそう望んだという話も、それはそれでありだと思うけど。
元地の村上は、江戸時代の1666年に尾張藩士の村上治兵衛が開墾した村上新田と呼ばれていた場所だ。おそらく西の本願寺村の外新田という位置づけだったと思うのだけど、『尾張志』(1844年)や『尾張徇行記』などにこれに相当する神社は見つけられなかった。 瑞穂台地は西の熱田台地とは古くは干潟の海で隔てられていたものの、熱田との関係は深く、瑞穂台地の古墳や遺跡も尾張氏と関係があったと考えられる。おどり山や眞好天神社がある場所も無関係ではないだろう。
古墳の石がどうして菅原道真とされたんだろうという疑問は残るも、神社がそういうのだからそういうものだと受け入れるしかない。石神は猿田彦だといえば猿田彦だし、イザナギ・イザナミだといえばそうで、ここでは菅原道真としたということだ。 眞好社の眞好は中国語でいうと真に好い、とても良いという意味だけどそれ以外の意味があるかどうかは分からない。 神社は歳月と共に変わっていく。それもまた神社の本質だ。人も変わり、生活も変わり、環境も変わる。時代に合わせて神社が変化していくのも必然で、もともとこの神社の祭神は別だったから今の祭神は間違っているなんて言っても意味がない。式内社といってもそれは昔の話だ。神仏習合も長い歴史の中の一時代のことで、それが日本人の信仰の本来の在り方というわけでもない。 私たちは今の神社とつき合っていくだけのことだ。そして、言うまでもなく、今我々が目にしている神社の姿が最終到達点というわけではない。
作成日 2017.9.6(最終更新日 2019.3.23)
|