境内にある由緒書きにはこんなことが書かれている。 「寿永三年(1184)木曽義仲軍は、源頼朝の鎌倉軍に「勢田の戦」に敗れ、粟津で敗死。一族逃げまどう中、側室かつら姫が腫瘍(おでき)で大変難渋。手當の術もなく、「おできで苦しむ人を助けて上げたい」とのご遺志をのこしてこの地で亡られ、榎を墓標に手厚く葬られた傳説に、いつの世から榎をご神木としてあがめ、おできの神「のうらいさま」と親しまれ、霊験も崇で、せんこう、ローソクの火絶えず朝野の信仰をいただき、今でも般若心経の声高らか、神前の小石で体をさすられると、病も癒されると、言われています。医学の発展に依り、極日の面影はなく「のうらいさま」の御名の由来も不明で榎も今では枯れ、「もくの木」がご神木となっています」
簡単に言うと、木曾義仲が頼朝軍に敗れて戦死し、残された一行が逃げ落ちていく途中にこの地を通り、側室の「かつら姫」がおできが原因で命を落としたのでここに葬り、榎(えのき)の木を墓標とした。その榎を村人たちがいつしか御神木として祀るようになり、それが直會社になった、ということだ。 これが史実かどうかは定かではなく、そういう伝承があるというだけだ。『東鏡』はもちろん、軍記物語の『平家物語』や『源平盛衰記』にも出てこない。 ただ、何の根拠もなくこんな話が伝わるとも思えず、元になるようなことがあったのではないかと思う。 神社がある高田村は瑞穂台地の西端近くにあり、すぐ西を鎌倉街道の元になる道が南北に通っていた。この道は鎌倉時代に鎌倉と京都を結ぶ京鎌倉往還として整備される道で、源平合戦のときは源氏も平氏も軍隊が通ったところだ。 一行が近江国粟津(滋賀県大津市)からどこへ逃げるつもりだったかは分からないけど、この道を通った可能性はある。
以仁王(もちひとおう)が平氏打倒を命じる令旨(りょうじ)を発したのが1180年のことだった。 それに応じて諸国の源氏に挙兵を呼びかけた源行家は、木曾義仲の叔父に当たる。 義仲の父・義賢は兄の義朝と対立し、義朝の長男(庶子)の 義平に討たれて命を落とした。義朝の息子が頼朝であり、義経であることからも、後に因縁としてつながっていくことになる。 まだ2歳だった義仲は義朝から逃れて木曽の山奥で育つことになった。自ら木曾次郎と名乗っていたという。木曾義仲も通称で、本名は源義仲だ。 1183年、頼朝と敵対した志田義広と源行家が逃れてきたのを受け入れたため、頼朝と敵対するようになる。 戦においては連戦連勝で、1183年に倶利伽羅峠の戦いで平氏に大勝利をおさめ、京へとなだれ込んでいくことになる。 恐れをなした安徳天皇が都を離れて西国へ向かったのはこのときのことだ。後白河法皇は比叡山に隠れた。 義仲軍に加わって京の警備をしていたのが高田城の元になった館に住んでいたとされる高田四郎重家で、冨士八幡社のところでそのあたりのことを少し書いた。 ここまでは良かった義仲ではあったのだけど、京の治安維持に失敗し、皇位継承問題に口を挟んで煙たがれるなどして、すっかり信用を落としてしまう。 それを挽回すべく西国におもむき平氏と戦うも上手くいかず、義仲を見放した後白河法皇は頼朝を頼るようになり、ここで義仲と頼朝の関係は決定的に悪化してしまった。あとは両者が戦ってどちらが勝つか決めるしかないところまで追い込まれる。 迫り来る義経軍に対して義仲軍は持てる戦力を結集し、宇治川で迎え撃つことになる。 しかし、兵力で圧倒する義経・範頼軍に敗北。 最後は近江国の粟津で顔面に矢を受けて討ち死にした。享年31。 墓所は滋賀県大津市の朝日山義仲寺(ぎちゅうじ/web)にある。松尾芭蕉は義仲を慕っており、義仲の隣に墓を建てて欲しいと遺言した。今も義仲寺では義仲と芭蕉の墓が並んでいる。
義仲の側室というと、『平家物語』や『源平盛衰記』に登場する巴御前(ともえごぜん)がよく知られている。 義仲軍に付き従って義仲とともに大弓で戦った勇猛な女武者として描かれている。 軍記物ということで大幅な脚色はあるだろうけど、そういう女性がいたことはいたのではないかと思う。少なくとも、正室の他に女性がいたには違いない。 かつら姫については史料がないため実在したかどうかは何ともいえない。個人的にはいたんじゃないかと思いたい。 ただ、「御前」ではなく「姫」として伝わっているということは、義仲の妾ではなかったのではないか。 御前(ごぜん)というのは基本的に主人や偉い人に対する尊称だ。巴御前や静御前、由良御前などが有名なので女性に対するものという印象が強いけど必ずしもそうではない。 ちなみに、側室という言い方は江戸時代以降に使われるようになった言葉なので、平安や鎌倉時代の妾の意味で使うのは間違いだ。正室、側室というように室(部屋)を与えられた女性ということで、側室と呼ばれるようになった。 姫は、偉い人の娘といった意味で使われる言葉だ。高い身分の人の娘を妾にしていた可能性もあるけど、義仲の娘とは考えられないだろうか。ただ、義仲は31で亡くなっているから、娘としたらまだ幼い。
かつら姫がおでき(腫瘍)で亡くなったため、おできの神様となったといった展開は神社ではよくあることだ。 熱田の地に隠れ住んで目を患った藤原景清を祀る景清社が目の病気が治るとされたのと似ている。 直會社の由来についてはふたつの説があるとされる。 ひとつは熱田社領であったため、その関係で直来(なおらい)が行われたからというものだ。 神事の後に神様にお供えした酒や食べ物を皆でいただくことを直来という。もともとは直り合い(なほりあひ)といい、神事という非日常から日常へ直るといった意味合いで言われるようになったとされる。 もうひとつの由来は、室町時代、このあたりに本願寺があって、本尊が阿弥陀如来だったため「にょらい」が「にょうらい」、「のうらい」になり、「なおらい」となって直會の字が当てられたというものだ。 ただ、本来は直来であったものが直會になるかと考えると、どちらの説も怪しいように思う。 會は会の旧字で、本来は人が集まるという意味の字だ。直来と直会とではやっぱり違うし、如来が直会に転じたというのもちょっと無理がある。 祭神が直會白龍大神、直會大神、日知龍大神と、龍の要素が強いことからしても、ここは龍神や蛇神の神社という性格が色濃い。 榎に蛇がいて、それを龍神として祀ったのがこの神社の始まりかもしれない。そこに、かつら姫の伝説がくっついたのではないか。直来は関係ないように思う。 昭和34年(1959年)に直會社から直来神社に名を改めている。このあたりにも印象操作といったものを感じないでもない。 神社がある直来町は、この直来神社が由来となっている。
『瑞穂区の歴史』は祭神を神直日命、大直日命としている。 伊弉諾尊(イザナギ)が黄泉の国から逃げ戻った後、禊ぎ(みそぎ)をしたときに八十枉津日神(やそまがつひ)の枉(不浄、不幸)を直そうとして神直日、大直日が生まれたと『日本書紀』にある。 神直日命、大直日命を祀るというのがどこからの情報なのか分からないのだけど、そのまま受け取るわけにはいかない。もし本当だとすれば、ここはかなり特殊な神社ということになる。直来からの連想なのか、何か根拠があることなのか、判断がつかない。
それにしても非常にユニークな神社だ。一般の住宅の庭が神社化している。 階段を登って一の鳥居をくぐると正面に井戸があり、それが手水舎を兼ねている。まわりには伏せたバケツが重ねられたりしており、生活感が溢れている。 右に折れて二の鳥居をくぐると、左手が住宅の建物で、庭には様々な花や木々が植えられ、灯籠の台には小さな鉢植えのサボテンが並んでいる。 ここまで暮らしと神社が一体化しているところは初めて見た。居抜きで売りに出されたら欲しい人がけっこういるんじゃないか。知らない人がたまに庭まで勝手に入ってくるのはうっとうしいかもしれないけど、神社のひとつの在り方をここに見た。 民間信仰もそうだけど、神社というのは人が生きていく上での智恵の結晶のようなところがある。拝んで歯痛がおさまるわけではないし、石をなでたからといっておできがなくなるわけでもないけど、信じることで人はここまで命をつないできたのだ。 伝承もまた、過去から未来の私たちに贈られた贈り物なのだと思う。史実や事実や理屈がすべてではない
作成日 2017.9.16(最終更新日 2019.3.26)
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