笈瀬町との堺に近い柳島町1丁目にある柳島神社。 神社があるのはかつての二女子村だと思うのだけど、『寛文村々覚書』(1670年頃)、『尾張徇行記』(1822年)、『尾張志』(1844年)にはこの神社に相当するようなものは見当たらない。 二女子村にあったのは明神と権現2社で、権現は熊野権現と白山権現のことだ。この2社は熊野社(二女子町)、白山社(二女子町)として現存している。 明神が今の柳島神社という可能性も考えられるのだけど、『中川区の歴史』は明神社と柳島神社を別としている。『尾張徇行記』は明神社を載せているのに対して、『尾張志』は「熊野社 白山ノ社 二女子村にあり」と、明神社を載せていない。江戸時代後期にはすでに廃社になっていたか、合祀されたか、移された可能性はあるだろうか。
神社本庁にも登録していないため『愛知縣神社名鑑』にもない。 柳島町は昭和16年(1941年)に八熊街と笈瀬町の各一部から成立した町で、八熊町の字名から来ている。由来はよく分からない。 神社名が柳島神社となったのは柳島町ができた昭和16年以降のことではないかと思う。戦後かもしれない。
今昔マップで明治中頃(1888-1898年)からの変遷を辿ってみる。 明治時代のこのあたりはまだ一面が田んぼで、神社の少し西を中川運河になる前の中川が流れていた。この当時からこの場所にあったとは考えにくいのだけど何とも言えない。 中川運河が完成したのが昭和5年(1930年)で、それにともなって運河周辺は区画整理されて大きく町並みが変わった。 現在の場所に初めて鳥居マークが描かれるのが1968-1973年の地図だ。このときまでに周辺は隙間がないほど家屋が建ち並ぶ住宅地になっている。 1970年前後には今の場所に神社があったことは分かるけど、それ以上のことは分からない。
鳥居は神明鳥居で、本社も神明造なので、神明社系のようにも思える。 ただ、明治以降に熱田神宮も尾張造から神明造に建て替えてしまったので、その影響を受けて熱田社系の神社が神明造になっていることもある。 本社の左右には小さな社がある。秋葉と津島というパターンが多いのだけど、決めつけることはできない。 本社に隣接する稲荷社の鳥居には末廣大神という額が掛かっている。 末廣というのはめでたい言葉で町名や店名などによく使われるものだけど、旧町名か旧地名から来ているかもしれない。 よそから移されてきた稲荷社とも考えられる。 賽銭箱の上に屋根がついていて、座布団に獅子頭が乗せられている。左右には小さなダルマもいる。この神社ゆかりのものなのか、単に趣味的なものなのか。
町名神社は正体が分からない。祭神も不明ではどんな神に何を祈ったらいいのかも分からないので、せめて祭神名くらいはどこかに書いておいてほしい。
作成日 2017.10.15(最終更新日 2019.6.25)
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